本質という言葉が溢れている。
本質かぁと思って読んでみるのだけど、その多くは僕にとって「あなたの感想ですよね?」という某氏の顔がキャプション付きで出てくる内容ばかり。他面の内の一面を捉えているだけでしょ?と言いたくなってしまう。どの面を選ぶのも自由だけど、それを本質と言ってしまった時点で感想になってしまう。だって人によって違う捉え方ができるものだから。
人それぞれがその物事の中核に見出すものが本質だと捉えるのであればそれでいいのだけど、なんかこう釈然としない。
それが誰もが同意できるようなものでないのなら、「私にとって」という但し書きを書いてくれないとやっぱり押しつけがましく感じてしまうのが一つだと思う。
多くの宗教家や哲学者が真理というものを求めてきたことの原動力に似た物を感じるからだろうか。結局は自分の解釈を正当化したい、武器を作り出したいだけではないかと思ってしまう。
僕は孤独感を感じる程度にはいろんな人と感覚が合わないことが多いのだけど、本質とまで言われた事柄まで合わないとなると自分がおかしいのではないかという思考が再燃してしまう。それを僕がそう感じるということは、その断言は僕にとって排他的、暴力的と感じる内容になる場合が多い。
本質は物事の中核、基幹を成す不変の性質ということであるけれど、それならば「私にとって」という但し書きが必要な内容ではない筈。人がいかに主観で物事を歪めて見ているかということを考慮しても、それなりに客観的である必要があるのではないかなと思う。
まぁそれは置いといて、なぜ皆そんなに本質にこだわるのだろうか。そうせずにはいられないやましさがあるのだろうか。
多数派、少数派の中で捉え方の違いが起きた時、少数側は自分を守るために自分の考え方を掲示する必要がある。それに似た物があるのかな。でもその場合は感想で十分だと思う。寧ろ捉え方は人それぞれだと訴えた方がはるかに楽だと思う。
自分の探求したもの、見出したものを広めたいのだろうか。自分の解釈を仲間に説くというのは、ヒトの発展の上で欠かせない要素だっただろうし、そういう面はあると思う。
でも僕の違和感はそういうことじゃない。
本質(感想)というものが溢れていることに対する違和感なんだと思う。
あ、そうだ。『なぜ「私は~だと思う」ではいけないのか』、『すぐ断定しようとするのか』ということ。N国の人の発言が話題になってるけど、それと同じ。差別やいじめは摂理だという発言。何故そう断言してしまうのか。政治家だから意図はあるのだろうけど。
このままでは無くならないのは僕も同意だし、それが本能に根差すものだというのも同意だけど、それを摂理だというのは短絡的すぎると思う。
この中、この時代だけで見れば摂理かもしれないけれど、それは我々が極々限られた条件下でしか経験していない以上、その限られた条件下における現象でしかない。それを『人間の摂理』とまで断定してしまうのは、結局何かを正当化する武器が欲しいだけなんだと感じてしまう。
それって新しい視点を提供すると見せかけた思考の停止であって、非常に危険なことだと思う。
その視点に立った時どう向き合っていくのか、その矛盾に対しどう解決に向け努力していくのか、それをもって初めて人間だと僕は思っているので、僕はこの発言が気に食わないわけです。
でもこの発言をさらっとできるのは、この人はある種のカリスマなんだろうなとは思う。
これについて触れたかったわけではないからここまでにしておく。
溢れる多くの本質に感じる違和感がこれに似ている。
自分の解釈に本質の名を与えて投げっぱなし。
それは何のための行動なのだろう。
何なのかはまだ分からないのだけど、何か嫌なものを感じるわけです。
そんな一方的で押しつけがましいものを読むのなら、「昨日~で食べたケーキが美味しかった。」というその人の気持ちのこもった感想を読んだ方が僕は楽しい。
批評や意見も人それぞれの考えだし、それを読むのは好き。
何が違うのだろうか。よくわからない。でもなんか嫌。
やっぱり断定と押し付けと主語がないことなのだろうか。うーん。