奇を衒ってるとか逆張りだとか天邪鬼だとか言うけど、大から見るのか小から見るのか、遠くから見るのか近くから見るのか、概要から見るのか細部から見るのか、確定的事実と言われる何かから見るのか可能性から見るのか、絶対的に見るのか相対的に見るのか、積み重ねで見るのかランダムの紐づけで見るのか
色んな見方、捉え方、考え方の好み、無意識の性質がある中で、同質じゃないからって出る杭を打つのは例えそれがヒトの性質だとしても僕は嫌い。
多数の意見に合わせることはこちらからすれば集団の中での自分の立場を守りながら自分に嘘を吐くことになる。多くの集団にとって優勢な性質と同じことをするのは、僕にとっては自分の性格的特徴の中で劣勢な性質を肯定し、優勢な性質を否定するという作業。無数の機能が複合的に作用する中でそんなルービックキューブを一面だけ見て色を合わせようとすることをしていれば、他の面の色がぐちゃぐちゃになっていくのは当然だよね。
そうやってある種の人は内側で分裂していくのではないかなとも思う。
その善し悪しは別として、それは本当に辛いものだ。そしてそれは常に異質に向け強いられ続ける。
マジョリティ的な性質たち、マイノリティ的な性質たち、それらがどのようにある個人を形作っているか、そんな土俵を作ってマイノリティとマジョリティに線を引くようなことがしたいわけではない。
ただ、急激に移り変わる様々な環境の中、適応を続けなければならない不完全であり続ける人間という存在において、振れ幅の様々な個々それぞれが痛みや苦しみを様々な形、尺度で抱えていることが、悦びや幸せを様々な形、尺度で感じることが出来ることが、同じであるから違い、違うから同じであることが。個々のより深い理解への意志を通さずして集団としての人々の作り出す輪が、我が子に乳を与える母のような、柔らかく温かな優しさを纏うことは出来ないだろう。
なぜ僕はそれを集団に望むのだろう。わからないけど、それは僕の深く幼い部分に刻み込まれていて、同じものを刻み込まれている筈の人々が作り出す様々な集団がその逆をやっているように僕は実感していて、ヘイトの作り出す酸の海に沈められているような気がしているのだろう。
自らが救われたいという気持ちが反映された妄想を自分の死んだ先の未来に求めて生きるのだろうね。
柔らかさ、温かさ、優しさ。それを求めることがたとえ人がヒトであることから目を逸らすことを意味するとしても、多分僕はそれを求め続けるのだろう。どんなに手を伸ばしても掴むことのできない虹を追うように。記憶の先にあるはずのその感覚を頼りに。