競争原理というものがあるというが、その言葉の中には複数の競争、競争とは関係のない暴力も含め、それらがごちゃ混ぜになっていると感じる。
関係の薄いものも混ざって競争原理の競争として、原理の名の下に正当化されているのではないか。原理と言うのならその原理がどの段階の本能に根差すのか明確にすべきではないか。
そのそれぞれの競争の根幹にある本能が個体レベルなのか集団レベルなのか、また集団の中での立ち居地のためのもの(アルファ争いのような)なのか、役割のためのものなのか、それらをはっきりさせないで『競う生き物だから』で片付けるのは乱暴だと思う。少なくともヒトは競わない選択をする生き物ではある。他者の為に死ぬことがある生き物でもある。
ヒトの生存が個体レベルの問題だとしても、ヒトは社会性を持っていて、群れを利用しての種の生存を選んだ動物であって、その集団特性を利用し繁栄してきた。であるならば自分の属す群れの為に自らの生存を捨て死を選ぶことがある動物であるということは前提でなければならないのではないか。
であるなら、個人に対し、他の動物の個体レベルの生存競争という言葉を当て嵌めることには慎重にならなくてはならない。ヒトはより集団レベルの本能に翻弄される生き物だと思う。
現代では曖昧になったとはいえ、群れというものに対する帰属本能があるからこそ、エイリアンが攻めて来ないと小さな社会としても国家としても人類としてもまとまれないとまで言われるのだろう。集団としてまとまるために敵が必要な程度には自分達の社会に迷っている動物でもある。それが元からなのか、あるいはここ最近の大きな変化のせいなのか、それは分からない。確かなのは社会性がとても大きな意味を持っていること。
ハチは何故自殺攻撃を仕掛けるのか、兵隊アリは何故戦うことに特化しているのか、ハダカデバネズミのメスは何故女王しか繁殖しないのか、ボノボは何故性行動を生殖以外の目的に利用するのか。
それは社会的動物であって、個体の役割を利用し、群れの生存を優先するよう生存戦略として組み込まれているからではないか。
それならば、競争という競争すべてを同じように扱うのは違うのではないか。細分化した個性の振れ幅である程度の役割が得られるのが群れならば、個々の競争に対する意識はその個性の影響を大きく受けるのではないか。たとえそれが経験によって育まれるものであっても、気質の影響を大きく受けるのであれば、競争意識を導入し、育むことによって本来の役割につくことが不利になる、本来的な生き方で苦を感じるようになる個体も居るのではないか。
本来的に競争が必要な役割に育つことが決まっている個体であるなら、競争意識を導入するまでもなく会得し、自然と育むもののはず。その性質を持つべきでない個体の場合、競争から意識的に、また無意識的にストレスを受け、離れていくはず。
オスとしての肉体的な強さに群の内外で競争は大きな意味を持つだろう。それには他の動物同様男性ホルモンが関係してくる。そのホルモンの分泌にばらつきがあるのは何故なのだろう。正常値が本当に正常なのだろうか。本当にばらつきは生活環境の影響で出ているのだろうか。そのばらつきがもし、あるべくしてあるならどうだろう?
もちろんすべて相互に影響してるのだろうけど、あるべくしてあるという可能性は証明の難しさからも証明の必要性の薄さからも、科学には無視され易いものだろう。
実際ヒトというのは、マッチョなオスばかりでもないし、好戦的なオスばかりでもない。それ以外の性質が生殖において長い間(恐らくどんな文明よりも)優先されてきたということではないだろうか。それは社会性あってのことだと思う。群れとしてマッチョばかりでも仕方ないから。
だからこそ力ばかり強いオスだけが子孫を残せるわけでもないのではないか。金が力だとしても、権力が群れを支配できたとしても、それを持つオスばかりが子孫を残すわけでもない。メスがそれを許すのだから、そう考えるとかなり特殊な生き物だろう。でも、だからこそこの性質の群れは成り立ってきた。
勿論文化的、個体群的な要素もかなり色濃く影響するのだろうけど。それは雌雄(時にはそれだけでなく)の在り方ですら社会・文化によって大きく変化することからも見て取れる。その違いですら文化と雌雄の双方が結果でしかない、鶏と卵のような関係にあるのだと思う。
そんなこんなで、社会・群れが基礎とする位階に生得的な役割分担に関わる気質が影響するのであれば、それはとても自然なことで、実際に自然界にいくらでも見られることでもある。
さて、言い訳の為の序文が長くなった。
僕は競争が嫌いだった。それそのものにストレスを受けたし、競争自体に価値を見出せなかった。勝てる競争でわざと負けたこともあった。正直でないことを嫌う僕が。それはどちらに転んでも不快だから。
傷つけるぐらいなら傷つけられたいと感じる子供だった。今でも「競争が原理だ」という言葉を聞くと経験的な違和感で反応してしまうわけです。
そんな僕でも競争・争いを肯定する場面がある。その事実は、原理とされる競争という言葉にいろんな競争がごちゃ混ぜになっているという僕の中での主観的証明なわけです。そんなぐちゃぐちゃなものを原理と言われても…
現代では赤ん坊の時の気質的反応で成長する性格型が予測できることが認知されてきた。多分もう少し気質の振れ幅に優しくなっていく流れができると思う。
そろそろ『一律に』競争を植え付けることに対する疑問がもう少し膨れてきてもいいと思う。
競争が悪いというわけじゃない。勝ち負けというものを『教える』中に、優劣というものに対して、教える側の意識の中に善悪と似た現象が起きてるのだろうと思う。「負けてもいいんだよ」という励ましに、負けちゃって可哀想だから励まそうという同情が見え透いてるから傷つける。そして「他の分野で優秀だからいいんだよ。」と意味のないバランスを取ろうとするからおかしくなる。挙句の果てには「君は優しいから」ってそれを取柄にさせようとする。それってその感覚の人間にとって、優劣の対象じゃないんじゃないかなって思うのだけど。
導入されてすんなり受け入れられる人にとっても、導入のされ方というのは尾を引くものだろう。導入されたものは個体としても集団としても、それを持って生きることになる。それをここまで容易に、一律の導入をして正当性が得られるのだろうか。
競争社会で生きられるように、と欺瞞的に導入するがために、集団として競争の泥沼にはまっているのではないだろうか。東部戦線のドイツ軍のように。冬将軍はまだ来てないけど、これから先も来ないとは限らない。
全体として折り合いをつけるのが不可能なのが一律に導入するという選択の負の側面なのだろう。
競争でもなんでもそうなんだけど、導入するのであれば、しっかりその影響を評価しないといけないと思う。競争社会は競争社会でもいいけど、その自分の育った社会を肯定する為ばかりにぐちゃぐちゃな原理を振りかざしてまで自分達の首を絞めていたら元も子もないのではないと思う。
まだ150年かそこいらの教育理念。一律としてはもっと浅い。今からでも偏見を取っ払って評価し直すのは遅くないと思う。
競争、それについては一度整理すべきだと思う。
第一歩として、自らの中の様々な競争に関する意識を一つ一つ掘り下げると面白いかも。