感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

物乞いと現物支給 ご飯と餌 言葉の手垢

たまに物乞いの子供に食べ物をあげる。

昨日もそうだった。

 

中途半端に飢えの味を知っているせいかあげたくなる。だって辛いし、辛いの見るの嫌だもん。

お金はあげない。手間がかかっても食べ物を買って与える。現物支給だね。

やっていることは野良猫への餌付けと変わらない。猫と違うのは笑顔を返してくれることがあるくらいだろうか。猫もスリスリしてくれるけどね。

 

餌付けかぁ、どうしてそう感じたんだろう。

場所が場所なら叩かれそう。

 

食べ物をあげるのは、僕が飢えた時に一番望んだのが食べ物だったから。

お金は取られる可能性が高くなる。仮に彼らが雇われ物乞いや奴隷物乞いだった場合は特に。

お金は飢えを満たさないばかりか煩わしさの原因にもなるということ。色んなものと引き換えられる力があるけど、その万能さは立場や場面にもよると思う。

それに下手にお金をあげるとシンナーやアイスを買うかもしれない。それじゃ本末転倒でしょ。お金をあげるのが目的ならともかく…

 

そういえば「同情するなら金をくれ」って昔流行ってたけど何だったんだろう。同情かぁ。同情…僕も同情は嫌いだけど、この台詞は「同情して尚且つ金もくれ」って感じるから何か嫌。荒んだ大人になってしまった…

 

何だっけ。あ、現物支給。

それとね、お金をあげると仲間を呼ぶ可能性も高いし、最悪顔を覚えられることになる。僕とは生育環境が全く違って、価値観も行動原理も違う人たちだから、僕からすると何をするか分からない。分かるつもりになるのは筋違いだと思うし、近づけばお互いにとって痛みになることもある。

お金に余裕がある素振りも、興味を持ってる素振りも見せない。実際余裕ないけど…本当に彼らは敏感に察知するので、僕のように他人と目が合って無表情を貫くのが難しい人間は目を合わさない方がいい。

 

物乞いに関わるなとはいうけど、その辺を気をつけてお金さえあげなければそこまで害はない。小さな子供はね。10歳過ぎたくらいの子になると、揺るがない眼つきでこっちにくるから僕は怖くて無理。ふぇぇ…ってなる。いろんな意味で勝てる気がしない。

 

そうそう、現物支給と言えばフードスタンプとかあるけど、それについて何か言いたいわけじゃないからね。貧困のイメージに繋がり易い飢えが貧困の条件かと言えばそうでもないと思うし、より相対的な意識下のものな気もする。

フードスタンプはフードスタンプの良さもあると思うけど、人間の性質的に難しいのだろう。みんなそうすればなんかソ連っぽくて面白そう!

すぐそうやって意味の分からない冗談で切り抜けるのやめない?やめにゃい!

 

 

僕はさっき餌付けと書いたけど直さなかった。

これを不快に感じる人はどのぐらいいるのだろう。

 

餌付け。

僕が釈明するのなら2点になるのかな。

まず、物乞いの子と動物を同一視することは僕にとっては彼らを卑下することにならない。なぜなら僕も動物だという認識だから。

人と動物に上下がある感覚がない。あるとすれば力の優劣だけど、そんなの種と状況によっていくらでも変わる。

強いて言うなら僕はヒトだから、人の方が近いと言うことはできるだろうけど。

 

この感覚はいろんな意味で表出するのが難しいけれど、動物を卑下の喩えとして使う人は多く、しょっちゅう噛み付きたくなる。

豚や犬は侮辱語とされたりするが、それを侮辱と捉えれば同じ土俵に上がる感覚がある。だから素直に表現するときは犬みたいとか豚みたいとか敢えて使いたくなる。人間の容姿を揶揄することはないので、性質や行動、例えばお風呂好きとか、匂いを嗅ぐのが好きとか、そういうことだけど。

対人関係においては、それを理解できる感覚のある人が相手でない限りそれもしない。だってわざわざ人に嫌な思いをさせる目的もないからね。

 

こんなこと小学校でやると痛い目見るからね!

袋叩きにされるし、下手したら思想矯正キャンプ(道徳の授業)送りだよ!

どっちが偏ってるか。僕からしたら周りだった。

 

 

こちらでは例えば、ある民族自体が卑下されていて、 その民族の名前そのものをオフェンシブな語、差別語だと捉える人が多い。だから「その人たちに対してその言葉を出すな」って、僕はかなりおかしな理屈だと思う。それが他民族に勝手につけられた名称であったり勝手な表現であるならともかく、彼らはそこにアイデンティティの軸を築いていると肌で感じるから、そこは僕にとっては譲れない部分で。

それが差別になるのなら、そう捉えられるのなら、それは差別だと思い込んで避ける方の意識が伝わることがより大きな問題だと思う。

 

そういう言葉の枠の中で人を判断する態度が僕は気に食わないのかな。部落というものが今一瞬頭に浮かんだけど、こっちは更に複雑だと思う(非差別意識という面で)から触れない。

 

 

餌付け。もう一つの引っ掛かりは、なぜ餌という部分を撤回しないのか。「餌付け」と「食べ物をあげる」を比較してなぜあえて餌付けを残すか。

意固地なんだろうな。

 

では「餌付けする」と「食べ物をあげる」の違いはなんだろうって考えて、結局動物と人という部分の違いしか僕には見当たらなかった。FeedingはFeedingでしょ。こっちはこっちで食べさせてる感が出るけど、それはFoodとFeedの違い。今言ってるのは動物が対象でも人間が対象でもFoodはFoodだってことで。

そうなると僕は撤回できない。なんだかわかんないけど「同列に扱うべきだ」という思考が優先される。そう、べき。意図が入ってる。敢えてこっちを使うということを自然にやってる。ナチュラルに嫌われる才能かも。グレてるなぁ。

 

だって感覚的に同じなんだもん。それならより僕にとってその雰囲気を表す、指が勝手にタイプした語を選んでいいでしょ。

…って言いながらその裏に主張を隠してるわけだ。面倒くさい男だね。

 

勿論人を目の前にした時に口に出す言葉はその相手や状況によって勝手に変わるというのは前提。ここはチラシの裏で僕の中の会議の場だという意識から、より自分の価値観に頑固になるのだろうか。

 

 

ただ別の観点から餌と食べ物を比較した時、例えば僕のお昼ごはんの時間を餌の時間とした時、それは違うっていう感覚もある。

その違いは単に餌には彩がないから、ってなるんだけど。そこに付きまとうのは家畜の餌のイメージであって、野生の採餌であって。人の食べ物への思い、ご飯というものの彩り、温かさが対比にあって、それ故の餌の冷たさがある。

 

じゃあ機械的に作られて彩もへったくれもない、料理とは言えないようなもの、例えばパッケージフードやコンビ二弁当はどうだろうって考えると、やっぱり僕にとっては餌かなぁ。でも状況によってはお食事にもごはんにもなり得る。あの彩りあるお弁当もあの支配されたオフィスの中では餌となるように…そう、僕は家畜…広大な森で採餌したい…

はい。心象も大分反映されるということだろう。

 

じゃあ撤回する?

しない!

 

あの子達が食べ物をもらったと感じるか餌付けされたと感じるか、僕の態度に偏りがなければ後者になることはない…はず!どちらでもなく、食料を『勝ち得た』と感じている可能性は高いと思うけど、あげたくてあげるのだからどれでもいいのです。

 

 

言葉の手垢、イメージ、それぞれの価値観って本当に面白いと思う。時々言いようのない気持ち悪さも感じるから、その感覚に従う。

気に入らない手垢を拭いて僕の手垢をつける、一種の抵抗をするのだ。だってこれは僕の言葉だもの。

 

ということにしとこう。