国は生き物だと言われることがあるが、僕たち一人ひとりが構成する社会というものが、例えば超個体という概念としての要件を満たして存在していて、ある特定の尺度、次元、観点でしか観測できない(例えば僕の体や思考を形作っている細胞や細菌、または器官のひとつひとつが僕の思考や感情を把握できないとして、そのように)とすれば、社会という個体(それぞれの社会の曖昧さには目を向ける必要がないとして)にとって僕の存在は何なのだろうか。
その超個体が一つの肉体を持たない、或いはこの世界の定義における肉体とは別の肉体を持っているかでも変わってくるのだろうけど。
それがある種の集合知を主体にした生き物として、いや、生き物でなくてもいいんだけど、そういった存在としてそれぞれの社会(或いは複数の社会)の上位に存在してきていたとして、その存在が織りなす成長、繁栄、競争、伝承という繁殖のために人の個々が存在しているとしたら、僕らは何と壮大な実験の取るに足らない一部として存在しているのだろう。その競争、例えばイデオロギー争いでも、アイデンティティに根差すヘイトでも、それらは僕らという細胞レベルの個体にも痛みをもたらすが、更に上位の存在があるとすれば、その痛みすら成長のプロセスに過ぎない。そしてその地点から見下ろせば、僕らの不毛な争いもまた、「何をやっているかよく分からないけど多分必要な物」程度に認識されるのかもしれない。
観測できないだけで彼らが感情を持っているのなら、僕らの知を、思考を束ねたものを利用した独自の思考を持っていて、僕らとは違った規模の同じ形の精神を持っていたら。僕らと切り離されていて共有もしている様々な感覚を持っていたら。彼らは何を想うのだろう。
でも彼らが存在したとして、僕らを見下ろす時には僕らが自分の細胞を見るのと同じように別の世界の他人事でしかないのだろう。ちょっぴり切ない。
でも時間的感覚も規模もまるで違うから、そうなってしまうことは仕方がないことなのだろう。観測って、対象が星でも微生物でも僕らが一方的にやっていることだけど、一方的になってしまうのは仕方がないことなのだろう。例えば微生物が高度な知性を備えていても、僕らにはその物体をこちらに基準がある観点でしか観測できないのだから。ましてや星に至っては時間をも跨がなくてはならない。38度線を跨ぐだけで互いに観測し合うのとはわけが違う。
観測でこれなのだから、意思疎通ってもの凄いことなんだと思う。互いに観測し合って、予測し合って、思い込んで。面白そうだけどこれはまとまらなくなるからまた今度。いや、まとまったことなんてないけどね。
生命の誕生を物質的に、その誕生のレシピを探ろうという試みが長年されていても、それはこの世界の観点の物質的にも分かっていない。たとえ再現性のある実験でそれが解明できたとしても、こちら側から観測できるプロセスと、他の様々な階層から、時間的尺度から、規模から、人の持つそれを超えた感覚から観測されるその現象は全く違って見えるはずだから。
僕がヒトである限り既存の方法以外で物事を観測するのは難しいのだろうけど、でもその欠落したものが多いと感じる、凝り固まったと感じる観点ばかりが正しいとは思わないわけで…
何が書きたいんだ。超個体だっけ。
こんな妄想も、僕という訳の分からない存在が存在することを元に考えれば寧ろ妥当なのではないだろうか。またそれか。それを元にしたら全ての妄想が肯定出来てしまうというオチなんだよなぁ…
因みに今回の妄想は大体昨夜観たこれのせい。melodysheepの新作。皆が眠れなくなるくらい楽しい妄想ができるように貼っといてあげる!
LIFE BEYOND: Chapter 1. Alien life, deep time, and our place in cosmic history (4K)
土曜日も半分以上過ぎ去ってしまった。
話は変わるけど、週休二日ってどう考えても僕には足りない。土曜日は2%を切っている電池を充電しながらもこんな妄想をして電池を浪費し、日曜には月曜の影に怯え充電もうまく進まなければ自分の時間も楽しめない。週休4日でギリギリだなぁ。できれば5日欲しい。お仕事が、生活がこれを意味するのなら…
タスケテ…