感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

雨 水 自然に生かされている実感

この小さな村では、水の確保は死活問題。熱帯雨林の中だからといって常に雨が降るわけでもない。時期によっては雨量が極端に少なくなる。

 

飲み水となる雨水は減り、不安に駆られる。洗濯や沐浴をする川は塩分濃度が濃くなり、少し離れた井戸まで行かなければならない。その井戸水も毎日使われれば減っていく。

 

雨が降ってくれることを祈るしかない。

それでも母なる地球はいつも雨を恵んでくれる。でもその雨は、周期性を失い不安定な状態にある。

気候変動は飲み水、死活問題に直結する。食料への影響もすぐに出る。

 

昔の人なら地球の機嫌を損ねてしまったことにとうに気付いただろう。でも現代の生活は水も食料も他人事になってしまう。それは仕方がないのだけど、危ういと思う。

高度にシステム化された中にいるとは言え、そのシステムは自然が前提として回っているのだから。

 

様々な民族に雨乞いがあるように、人は常に自然に生かされていることを認識していた。水も食料も『与えられる』『恵み』という感覚があった。だからこそ生活はサバイバルだった。

 

街で生活する間は水道から水が出て、それを沸かして飲む。毎月お金だけが引かれていく。雨が降らなければ水道が時々止まり、人々は政府や水道局に文句を言う。文句言っても無いものは仕方ないのに。

 

街では食料もお金と交換する。そのお金はお仕事をすればもらえる。

電気やガスやガソリンも同じ。お仕事をしてお金をもらって払って使っての繰り返し。

それは僕にとってはよくわからない繰り返し。靄の中に居るようで、実感がない。僕はその生活の中に居ると迷子になってしまう。

 

利便性は時間や労力の短縮という利点がある。欠点も色々あると思うが、最大の欠点は自然に生かされているという感覚が喪失することじゃないかとさっき思った。

 

自然に生かされている前提が崩れ、『生き抜くこと』を身体が志向しなくなった時、一種の活力か何かが失われるのかなって。生から主体性が消えるというかなんというか。

まだ深く考えたわけじゃないのでわからないけど。

 

でも、特に僕のように社会の中の役割を果たすことで生を実感することが難しい人間にとってはその違いは大きいと思う。

何の為に生きているのかわからなくなるのは一度や二度ではなく、慢性的だった。

そういう意味で、僕はこの生活と出会って救われたのだと思う。

 

 

さっき2週間ぶりに少しまとまった雨が降ったので思いつきで書きました。

これでまた飲み水は2週間くらい持つかな。

 

いろんな側面があるからどっちの生活が良い悪いと言いたいわけではないのだけど、向き不向きはあるのかなって思うのでした。

 

その水に関する感覚は自然と人の関係、特に文明が自然を超えて在ろうとする部分を考えるのにも役立つかもしれない。

ただ色んなことを繋げて考えたいだけかもしれないけど。