感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

時間の呪縛 牢獄の格子と看守 色のない時間の区切り

僕の内側だけ時計の進みが速いのではないかと思うくらいに時間感覚に呪縛を感じる。皆の10分休憩は僕にとって5分休憩なのではないかって。そのくらい周りのペースに合わせるのが辛い。

僕が人類の車輪の発明を呪うのも同じ感覚に根差しているものだろう。辛い。

 

年、月、週、日、時、分、秒 

カレンダーを見ても時計を見ても、その全ての尺度の違う格子が重なり合って僕を閉じ込める牢獄にしか感じられない。いや、実際閉じ込められてる。内面でそう認識しているから第三者視点でその時の牢獄に閉じ込められる自分が見える時がある。

本当に辛い。

 

それらは僕にとっては何の根拠もない。ただ自然の現象の一部を、等分に区切っただけのものだ。等分にしたものを更に等分にしたり、区切ったものをくっつけたり。なぜそれに僕が支配されなきゃいけないのだろう?

時間を名乗るそれは、僕の存在とともに流れているふりをしているそれは、僕がまた逃げ出さないか目を光らせている。

僕は何度もそこから脱獄したから当然だ。僕が疑いを持っていて、その疑念が確信に変わりつつあることを彼らは気づいている。その僕の顔をした看守たちは『その』時間を根拠に従わせようとする。

 

文字にすると茶番だな。でも僕はカレンダーを見ても時計を見ても辛い。

 

一番初めの、僕の内側の時間に対する疑念は実際に休憩時間を他人より長くすることで直接的な問題ではなかったことが分かる。それではない。

格子の方だ。時間の顔をした何か。車輪の、文明の、社会の加速し続けてきた速度を基準として流れてるふりをしているそれは、その区切りは、合わせなければならないとするには僕には根拠が足りない。それは目安としてしか存在してはならなかったのではないだろうか。何故そちら側が主導権を握ってるの?いつから?分刻みの電車に慣れてから?学校で分刻みのスケジュールを叩きこまれるようになってから?時間の計算を習って秒から時間まで外の流れと合わせて感覚的に叩き込まれてから?スケジュールを立ててその通りに過ごせないと失格だから?

 

僕も意図せず脱獄する前は、苦痛は感じても疑問は感じなかった。でも外の空気を知ってしまえば、その流れと区切りが基準の世界には疑問ばかりになった。出ては入ってを繰り返し、でもやはりそれが基準たる存在として在り続ける世界である限りは完全に逃げることは出来ない。看守はほくそ笑む。でもこいつが存在できるのはそれが基準で回る空間の中だけだ。だけど…

 

 

地球が大体太陽を一周回る間に365と1/4回くらい地球が回転するからそれを区切ったものと、その全体を12個に大体分けたものと、365回あるもの(大元の基準はこっちだろうが)の1つ1つを7個まとめにしたものと、逆にそれぞれを1/24に区切ったものと、更に1/60に区切ったものと、それを更に1/60に区切ったもの。文字の数から便宜上60進なだけなのに、なぜそれは頑なに埋め込まれるのだろう。

何で僕はこれに雁字搦めにされなきゃいけないの?いや、してるのは自分自身なのは分かるけど、その僕自身がその行動をする根拠となっているものがあるわけで…

 

ちなみに太陰暦もここではそれなりに意味を持つが、宗教的な意味合いばかりになっているためあまり強迫的には感じない。あ、強迫的…そう、やっぱりそう感じてるのか。ともかく、宗教的な意味合いには権威がついてくるものだから、『権威による決定』を残す為の一種のおおらかさを残している。それはまた、月の状態を判断する余裕を残しているように感じられ、それそのものが自然の移ろいの中の、偶然性の中の自分を認識させるものでもある。それが神のためであれ権威のためであれなんであれ、それが許される流れとして残っている。

 

 

でも太陽暦はどうだろう。それに追随する時間の感覚は。

目安としてはいいんだよ。意思疎通の上でも、歴史でも、それは様々な局面でとても大きな役割を果たしてきた。色々な可能性を生む。予定を合わせることもできるし、計画もしやすいし、同じようなものを上手に作ることもできる。日にちだって、それがあるから記念日を祝うこともできる。

 

でもどうしてそれは伸縮性がなく、ハッキリした線が作る存在になっているのだろう。それは既に目安として存在するのが難しいからだろう。何故?

 

エンデが『モモ』の中で「灰色」と表現したそれは、僕から見て時間のふりをしているそれは、僕の中でも色がないのだ。記念日はいろんな色があるけど、それは記念の描く色であって、その区切りの色ではない。そしてその記念日は、この概念の区切り方でなくてもいくらでも存在できる筈のものだ。

6月の色はその月という区切りの色ではなく、季節が流れ、移り行く色を区切って平均化したものに過ぎない。だから実際の色より変化がない。

中秋の名月だってハーベストムーンやハンターズムーンだって、その区切りが無くても名付けられ、いつ戻ってくるか分かっている存在であって、それそのものが基準だった。でも区切りが基準になってからその色は褪せた。

旧暦は自然現象を元に目安として作られたから色鮮やかであったのに、それは捨てられた。

 

時が移ろいであるなら、僕が永遠を望む時はその瞬間瞬間が織りなす鮮やかさの儚さ故のはずだ。そしてその移ろいは、それに目を向けるまでもなく、僕らはその一部であるはずのもので。

この鮮やかさを奪いもする格子の概念の中に居る限り、永遠ほど恐怖になり得るものはないのではないだろうか。これを超えれば永遠の無への恐怖も和らぐだろうか。 

 

 

時計の分針も秒針も、全ての時計に必要があるものだろうか。時針があれば事足りる程度の流れの感覚であれば、目安が目安として存在できたのではないか。その善し悪しの話ではなく。時針の文字盤も12等分である必要はないし、区切る必要さえあるのか分からない。時針の一周が半日や一日である必要もあるのだろうか?

 

砂時計も『この時間の区切り』に合わせて作られるものに意味はあるのかということだ。それが十二進時でも十進時でも、他の概念でも。

その器における時間経過の始まりから終わりがどの程度の尺なのか、その上でその器においてどれだけ未来が減り、どれだけ過去が積もったのか、それが分かればいいのではないだろうか。

 

日時計も水時計も機械式時計も、それぞれの特性によって空間の時刻や、時間の流れを可視化するものだ。その特性に応じた使い分けを思案することは、捉えようによってはより時間をものにしているということではないだろうか。

 

正確性という点において機械式時計は強い。振り子の刻む、歯車の刻む正確な区切り。乾いた時間。

それだけ見れば革新であり便利なものだ。でもそれは、その正確な区切りは呪縛となり得るものだったのではないだろうか。
正確さゆえに基準となり得るから。逆転。人間はチクタクの乾いた音の区切りの中に自分を埋め込んだのではないだろうか。それは時を共有しているという錯覚を生み、加速する文明の速度から人々の目を逸らす役割も担ったのではないだろうか。

何度も同じことを書く辺り、僕はそこにどんだけ恨みを持ってるんだろうっていう。

 

 

僕は自然の中では、森や川、村では時計は見ない。『その時間』から解放される場所だから。太陽、様々な音や声、星空、潮の満ち引き、気温や湿度、空気の質感や香り、時の移ろいの目安はいくらでもある。時刻だってその中では、線の色が薄く伸び縮みするものだ。

 

ただ、僕がここで1つ書いておかなければならないのは、この感覚は、僕が時間に縛られたくないという感覚は、恐らく一人の時間が好きで、自分の内側の主観的な体内時間の進みを誰よりも好むからだろう。

その進みは自然の移ろい、流れである時間とは別のものであっても、不思議と調和するものでもある。ひとつの川の流れが場所によって速かったり緩やかだったりするように、そしてその時の状態によっても変わってくるように。許されるまでもなく、そうあって然るように。

 

しかしお仕事がある以上はそうは言ってられない。自分の予定は流動的にしているために、予定=他人との接点であり、ストレス。だからスケジュール的な要素についてはストレスばかり感じるネガティブな態度であるので牢獄という像も浮かぶのだろう。

人と会うことが好きだったら、楽しみでしかなかったらどうだろう。カレンダーに×をつけていく。その時間の進み、日の進みが感覚と合わない点でストレスを感じていたかもしれない。

どの道その区切りには僕にとっての根拠がないのだ。

 

人と会う予定にしても、この国のように分針が有って無いような感覚の人たちの中では、僕のストレスも和らぐのも面白い。それは恐らく、他人の時間感覚に支配されてしまうから。それが喩え僕自身が築き上げた幻想であっても、その空気の中では看守は絶対だからね。

 

 

時間感覚は僕の根底にある生きづらさのひとつだから拗らせてるところもあるだろうな。この前山で書いた時は、その2つの時間の流れの外側に居れたのに、今はやはり街の流れの中に居る。

定期的にまた同じようなことを書き続けるだろうけど、可哀想なものを見る目で生温かく見守ってあげてください。

時間という概念のない世界に生まれたかった。