感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

友人の心配 投影的な否定 

暫く会っていない友人、一応今もTwitterやFBで繋がっているんだけど、最近はとても熱心にワクチン啓発をしている。啓発っていうより半分反対する人達への糾弾になってる。

この人は何年か前にお父さんをガンで亡くしているのだけど、そのお父さんが民間療法に頼って改善せずに亡くなられた頃から主流医療の肯定、代替医療の否定にとても熱心だ。

 

なんて言うんだろう。僕は人が何を発信しようがいいと思うし、人がどんな医療なり健康法なりを選択するのかもその人次第でいいと思う。ワクチンもみんな好きにすればいいと思うし、ガンの治療や療養もどれでも好きに選べばいいと思う。

 

ただこの人の発信(信念)はとても強い感情に促されているような気がして、疲れないかなとか色々心配になる。肯定と否定、一見すると父を奪った代替医療への恨み(という主観)がそうさせているように見えるけど、その人の言葉にはもっと違うものが混ざってる。

 

多分なんだけど、その人はお父さんの闘病中から民間療法には懐疑的だったそう(本人談)だけど、それを上手く伝えられなかった、父親の気持ちを変えることができなかった自分を否定し、見ないようにするために主流医療を肯定している感じがする。

その傍ら代替医療に対して疑念を持っていた自分だけを肯定してこの数年間大きくしてきたというのかな。

その人の中で医療に関する善悪観が育つ過程で自分自身が飲み込まれてしまっているように見える。

 

だからいかに論理だけを信じているような態度を取っていても、論理的に肯定し論理的に否定しているつもりになっていても、善意に衝き動かされているとしても、それが滲み出ている。

極端に言えば彼女が根源的に否定しているのは代替医療や非論理や主流に対する反流ではなく、自分自身というのかな。それはそうでない自分自身を肯定し自己を守るためであって。それってとても辛いことだと思う。そうではない自分で在ることを自分自身に強いているわけだから。

 

こういう否定、自己肯定のための外側の否定はとてもよく見られるものだと思う。特にSNSが浸透した現代では。だからTwitterが辛いのもあるんだろうな。数あるSNSでも特に色んなものが混ざってる場だと思う。気軽さ故なのだろうか。

あれだ。『チクチク善意』と名付けよう。皆も使っていいよ!

 

冗談はさておき、もう一つ気になるのは、その人は「父との関わりは殆どなかった」「父のことは病気の頃から全然気にかけていない」という風に言っていたこと。でも会話でもお父さんは時折出てくるし、その人が選ぶ行動、見る映画や足を運ぶ場所は何かとお父さん(の記憶)が絡んでいる。

最近は父親が死ぬドラマを見たことを発信していたし、その夜に父の夢を見たとも書いていた。本当に気にかけていないのならば、傍から見てこんなにお父さんが出てくることはないと思う。

 

それと、その人が以前お父さんの生前のお仕事を肯定的に捉えていることを開示した時もそうなんだけど、お父さん関連のことを肯定的に話す時は必ず自分とお父さんの関係の否定から入る。

親子関係が良くなかったそうで、酔っては幼少期の辛いことを話していたからとっても辛かったのだろうし、お父さんとも関わりが少なかったのだろうけど、僕の主観では気にかけていないというより愛着を拗らせているように見えてしまう。勿論こんなこと本人に言えなかったのだけど…

毎度僕が感じるのが「本当にこの人はお父さんのこと好きなんだなぁ」で、その人の中での『お父さんと自分』の比重はとても大きいように感じる。こんなこと言ったら「は?」って怒られそうだけど 笑

 

僕も自分の父親に対して、今の自分から見ればいい思い出がないし、恨みもしていたからその人の気持ちは何となくわかる気がする。

でも割と最近になって(去年だったかな?)、子供の頃の自分は彼の主観として父親を恨んでいないどころか… ということに気付いたのと、あんまり恨んだり否定したりすると当時の自分、彼までひとまとめに否定され抑圧されるんだなぁと思った。

今僕は子供の頃の主観を彼と書いた。当時の『僕』とはやはりまだ書けない… これは一つのテーマだと思う。

感情というのは単純だからこそ複雑な頭や記憶が絡み難しくなるのかもしれない。

 

まぁ、そんなこんながあるからその人の中に無意識に自分を見てしまって悲痛が見えてしまうというのもあるとは思うんだけど、でもやっぱり心配。

僕はその人の子供時代を知らないけれど、きっと今その子は閉じ込められている。その人の内側で過去の自分と現在の自分のぐちゃぐちゃが見えるような気がして辛い。

 

あれ、これはその人の問題なのだろうか?僕の問題なのだろうか?うーん。

 

これって自然に抜け出せるプロセスなのかな?人によっては抜け出さないでも幸せに過ごせるのかな。

その人は客観的に見れば辛がってはいない(酒を飲めば泣くだろうし、内側でどう感じているかは知らないけれど)。僕と違って普段はしっかりした人だし。たとえ実際に子供時代の自分や、父が好きでもっと一緒に過ごしたかったけどそう言えなかった自分を抑圧していたとしても、多くの人たちのようにそれを糧と言って生きていければそれでいいのかもしれない。どの生き方が合うかは人それぞれだろうし。

 

でもなんなんだろう。うーん…

このまま見ていていいのか凄く落ち着かない。同情ではない。何かこう、耐えがたい否定の辛さ。

なんかこう、エスカレートしているように見える。

 

本人が内面に向き合おうとしていなければ伝えても意味がないし、中途半端に伝えてもただ辛くしてしまうかもしれない。

 

でも向き合おうとしていないわけではないのかな。それを必死に否定している姿とどうにか表に出たい気持ちが見える行動となって、出来上がった彼女の言動は実にちぐはぐしているから、それがとても辛く見える。実際の所、本人は辛くはなく、そして辛いのだと思う。目を逸らしたく、でもどこかで聞こえているのだろう。

 

またそのうち会うのだろうけど、僕はどのその人を見て振舞えばいいのだろう?

 

見て見ぬふりをするにはとても耐えがたく、伝えるにはどうしても言葉が足りない。