感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

新年 休暇の終わり

新年明けましておめでとうございます。

休暇ということで森の中の村に帰っていました。村は僻地で電波塔が1つしかなく、問題が起きると暫く使えなくなる。今回は一週間ぐらい繋がらなかったかな。12月30日頃からは繋がったのだけど、電波の無い解放感というか、携帯の通知見たくない!休暇(無給)なんだし見る必要もないよね!ということで最低限の利用にとどめていました。

 

お金払ってるのに繋がらないって日本に慣れているとちょっと戸惑いが出るけど、僻地なんだし仕方ないという余裕も必要なのだろう。というか街でも夕方から夜はISDNだった頃より遅いし。

あんまり「お金払ってるんだから相応のサービスは必要だ」、「同じ料金払ってるのにフェアじゃない」っていう思考ばかりになりたくないなとも思う。

自然の中に居るときはそれを許容できる余裕が僕の中に生まれる。思い出させてくれる。

 

村に居る間はブログは読みたいけど回線の制約上辛いし、書きたいとはあまり思わなかった。

ここは掃き溜めであってチラシの裏であってメッセージインボトルであって、そういう思考優位にならないとあんまり必要性が出ないんですね。でも街に戻ってくると話は別で必須になる。

無数に散在する僕の感覚とかけ離れたものに接することで湧き上がる違和感は思考モードへのトリガーになるし、マインドワンダリング的に現実逃避するのは一種のこの環境下において優位に起きる反応なわけで、それは表皮を通して外界と接する僕自身が、ネズミ捕りの中で血を出しながら暴れまわるネズミのようにネズミ捕りとネズミ双方を演じる存在だから起きることなのだろうなぁと思う。

 

自然の中では、経済観念が入りつつも部族社会、狩猟採集をしていた僕らの祖先と似たような生活が残っていて、それに即したゆるい役割分担が生まれる小さなコミュニティでは、今を生きる以上のことはあまり考える必要がない。

一週間先のことはわからないし、明日明後日のことでさえ天候次第で出来ることが大きく変わる。ガチガチの予定を想定していると馬鹿を見るしストレスを溜めるもの。

なるようになるしかない、というより、そう在るものがそう在る、そう流れる、それがそういうものという空間。『然り』の世界。共同体としての共同作業もその土台の上で営まれる。

 

僕の存在がどの瞬間においてもその形で然る世界。

バラバラになるまでもなく、静寂の中ひとつの緩やかなまとまりとして存在できる世界。

 

勿論村社会特有のストレスはないわけではないけれど、存在するだけで感じるストレスが慢性化する街の生活とはその質も支配される部分も大きく異なるものだ。

ネズミ捕りにもネズミにもならなくて、ただそういう存在として在れる。それが土台として保たれる。だから僕にはその環境が合うのだろうな。

 

なんてこと言ってももう街に居るわけで、色んな僕が喚き散らし始めている。破滅を願う僕すらも。

新年だしここまでにしよう!明日あさっては週末!ネズミ捕りから出られるよ!

でもどうしたら、その外側の檻、更にその外側の檻、その連続は見えなくなるのだろう?出られる?目を逸らしているだけでは?

まだ帰ってきて1日なのにもうその檻が、冷たく色の無い枠が、ハッキリと存在感を増してきている。皆はどうやって平静を保っているのだろう?それとも皆、この毛を逆立て、血を流しながら檻を掻き毟り身体をぶつけるネズミを抱えているのだろうか?見せないだけで。