全ての物事を偶然性の土台に置いた時、そこに必然性という花のような香りが漂うようになる。
僕にとって必然性とはそういうものでなくてはならないらしい。
今まで会ってきた物事の必然を説く人への嫌悪感は、その土台を無視するか説明しないことによるものだったのかもしれない。
偶然性を無視した必然性は、胡散臭い説教であって詐欺師の理屈であって答えを暗記させその世界に人を押し込める学校の教育であって柵で囲われた放牧場だった。
それは全てが僕にとってしがらみであって、嫌悪の対象だった。
でも自分自身が嗅ぐ必然性の香りは僕を魅惑する。
この香りは彼らの信じようとする必然性なのだろうか?前提として縋り、救いを求めるものはこれなのだろうか?
でもこの香りは僕の世界では、それだけを見ようとすれば消えてしまう。掴もうとすれば逃げてしまう。
偶然という自然の戯れに身を置いている時のみに内側で感じる光であって、希望であって、陶酔であって、僕が僕である以上は外に求めることは出来ないものなのだ。
なぜ君達は理屈ばかり押し付けようとしたの?もしこの香りが同じものであるなら、この香りの美しさを語らないの?
そして本当にそれを感じているのなら、なぜそれを感じる方法を伝えようとしないの?
もし僕たちが互いに同じ花の香りに魅了されているのなら、その伝え方一つでこんなにも分かりあえないのはとても悲しいことではないだろうか。
『もし』同じものを感じているのなら…
たとえ僕がそれを反省したところで、僕はやっぱりその伝え方には共感することは出来ない。
たとえその香りが本物でも、全く同じものを感じているとしても、君達の言葉は僕を檻に閉じ込めようとするから。
手に縄を持ってこちら見てる君達をどう信用しろと言うの?
必然性を語るなら、まずはその自分の足枷を外し、柵の外に出て偶然のままに駆け抜ける姿を見せてよ。
共に駆け抜けて、君の嗅いだ香りに感じたものを語ってよ。
それをしてくれないのに、その気持ちのこもってない無味乾燥の言葉をどう信じろというの?
僕はそんな目で世界を見て生きたいとは思わない。その輝きのない、まやかしの必然性に殺された目で。