感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

三つ子の魂 再会 人格と意識

上の子が高熱を出した。一時的に40度を超える熱を出したのだけど、その時ほんの少しの間、彼が3歳くらいの頃に戻った気がした。今日の昼、数分間の出来事だった。

 

僕はハッキリと昔の、もっと小さかった頃の彼だとそう感じた。表情、言葉、より純粋(というと何か嫌な感じだけど他の言葉が見当たらなかった)な雰囲気。言葉にも表情にも意図を乗せないからかな。

親としてはとても心配で気が気じゃない筈なんだけど、なんだか当時の彼にまた会えたようでとても嬉しかった。その瞬間は熱に苦しむ姿がなかったから、抵抗なく嬉しさも感じたのだろうか。「会えたようで」と書いたけど、実際に当時の彼と会ったと感じた。

 

その時の彼は僕と妻の存在には疑問を感じなかったけど、1年以上一緒に暮らしている弟のことが認識できず、驚いて怖がっていた。そして「これ、びっくりした」と弟を指さしていた。「これ」呼ばわりがまた懐かしい。海外育ちで中途半端な日本語で育っているので、当時は人も「これ」呼ばわりだった。今は英語が強くなっているので、日本語で話しかけられない限り本人は英語を発する。彼の口から自然とその拙い日本語が出てくるのもとても懐かしくて。指輪を触って、目新しいものを見るように「これ好き」って。昔の彼そのものだった。雰囲気もすべてが。

 

僕がそれを思い出して何故涙が出るのかというのが本題だろうか。

一瞬感じたのは罪悪感だった。ずっと彼を彼として見て共に生活する中で、突然再び目の前に出てきた幼い頃の彼は忘れ去っていた。なんだかそれが僕にとっては罪悪を感じる部分だった。

氷枕で頭を冷やして数分後、表情も変わりいつもの彼(熱に喘いでいるが)に戻っていた。

ここまではっきりしたことはなかったものの、彼はそういう事が多かったからその辺りに違和感はなかった。特に夜中に寝ぼけた時、彼の記憶に残らない部分で彼は全く別の彼になることがあった。寝ぼけといえば寝ぼけだけど、それ以上の何かに見ようと思えばそうも見える。

だから彼の人格が変わったこと、そして戻ったことにはあまり驚きはなかった。

ここでは脳炎がそれなりに発生して退行したまま戻らないとか、障害が残ってしまうというケースはあるので、そういった面での安堵はあったけど。

今回のことも彼の記憶には残っていなかった。そりゃそうだ。

 

発達というものに段階があると言われるが、僕のイメージだと球形で、外側に新しいものがまとわりついていくイメージがある。どこかの機能が鈍った時にも中心の部分の機能は残っていて、リンクしている記憶がすべて繋がらなくても、一部または中心だけは全く別に機能するような。幼児退行した老人とか見ていると、そう感じていた。

 

『三つ子の魂百まで』っていう言葉は全く別の意味で使われるものだけど、ある意味では僕はそれを、文字通りの『三つ子の魂百まで』を目の当たりにしたような気もする。3歳の頃の彼、朽ちずに内側に残り続ける純粋な部分と再会したのだから。

 

いつもならここから「では僕の三つ子の魂は?」といくのだろうけど、そういう気分でもない。

 

一瞬帰ってきた彼は、単に熱で記憶を含めた複雑な機能にアクセスできないから中心部にある段階のものが出てきたのか、意識がアクセス可能な記憶領域に基づいてその都度形成される人格から成るものでその時は3歳程度にアクセスできたからその彼が出てきたのか、朦朧とする中で混濁した単なるカオスの一部なのか、精神的に彼が内在する彼の1つの形態が出てきたのか、魂というものが存在すると仮定してその中心となるものが出てきたのか、魂というものが2つ以上存在するのか、僕が勝手にそう認識しただけで本人は全く違う反応を示していたのか、

そんなものは割とどうでもいいんですよ。勿論紐解くなら知りたいけど。

 

それより、実際に僕が接したと認識しているその3歳当時の彼は僕をどう認識していたのだろう。その無垢な目はそんな疑り深い目で物事を見ている目ではなかったけど、僕の感覚の問題なんだろうな。

『彼』と捉えていたものに、『昔の彼』を一瞬だけど見てしまって、その『変わらない(と思われる)彼』を『積み重ねの結果の存在の彼』の中に見たわけで、彼、ひいてはすべての他者に対する認識が置き換わる出来事だった。僕の内側で感じていた複数の僕がより線を濃くしたと共に、外の世界の人々も積み重ねに見えるようになった。物事をもっとシンプルに見たいのに、なんかまた見える世界が複雑さを増した気がする。疲れそう。

 

でね、それはいいとして、一瞬出てきた彼が本当に彼の内側にずっと内包されていた小さな頃の彼が一瞬出てきたと仮定したとき、僕はこの数年間彼を無視していたのではないだろうか。いや、客観的に見てそんなはずはないというのは分かるけど、どうしてそう感じてしまうのだろう。自己投影のようなものなのだろうか。

いや、僕は無視してるつもりはないのだけど、小さな彼からしたら無視されてきた気がしたかもしれないなって、そう感じてしまう。その罪悪感。そして久々に出てきたとして、数分間の再会だったのに僕はそれに相応する対応をできたのかっていう罪悪感かな。あ、これが深いのかな、涙が出てくる。

その立場になってさ、目の前に知らない自分より少し小さい子が急にいたらそりゃ驚くし怖いし不安だろう。悪いことをしたのかな。不安、恐怖を与えてしまった彼のその人格は今は見えてはいないけど、もし仮に、その意識は不顕在なだけでその不安や恐怖を抱えたまま過ごしているのだとしたらどうしよう。もしそうだとしたら、僕がその数分の応対で彼のその不安や恐怖を拭い去ることができなかったのだとしたら、その不顕在の意識は時を超えてそれを抱えてしまうのではないだろうか。

 

歪んでるなぁ。どうしても主観を当て嵌めて物事を見るんだろうね。なんで他の人格がそれぞれ不顕在の意識を持ってることが前提なんだ。そう感じている根拠がどこかにあるのだろうか。

 

でも仮にそうだった場合、僕の対応は僕にとっては相応しくないわけで。いや、僕が逆の立場だったら全然そんな風に思わないというのは分かるんだけど、でもさ…いつものパラドックスだっていうのは分かってる。自分に対して言うのと相手に対して言うので言ってることが逆になるっていう。あー、めんどくさ。

 

多重人格と言われる人たちはどうなのだろうか。それぞれの人格にそれぞれの記憶が蓄積するのか、それぞれの人格が一つの記憶を共有するのか、一つの記憶に従ってその都度それぞれの人格が形成されるのか、もっとぐちゃぐちゃなプロセスなのか。人によっても違うのかも。

 

記憶に連続性があるかないか、そんなことは今は関係なくて、彼や僕に複数の連続性の線が存在しているけど一本だけを認識しているのかもしれないし、瞬間の繰り返しの存在であるけど連続性が無くてもその瞬間の繰り返しは切り離して存在するかもしれないし。ということは彼が、今の彼が、今の他者たちが、今の自分が記憶しているかしてないかが、さほど重要ではないという事になるのではないだろうか。より、すべての瞬間を大切にしなきゃいけないなって思った。いつも以上に支離滅裂で笑う。それだけ新鮮なのでしょう。

 

熱で苦しんでいる彼には悪いけど、とても貴重な体験をさせてもらった。僕がこの先どう捉えるのか分からないけど、その涙はこんな煩わしいものばかりではなく、懐かしい記憶に触れたこと、再現された彼の記憶と僕の記憶のそのやり取りが、その懐かしさが、温かさを呼び起こしてくれて、それが一番大きいし大切にしたいと思う部分。

 

とにかく早く元気になって欲しい。