感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

タナトフォビア 感覚的な永遠の無 吐き気とのお付き合い

僕の死後恐怖についてなので苦手な人は見ないでください。解決案を提示するものですらなく、その恐怖の克服を諦めている人間の文章ですので…

 

 

死にたいと思ったことがない。消えたいは何となくわかる。チキンだから死にたいと思えない。

小さな頃からよく、生まれた以上確定的に起こる死という現象の後のことを思っては吐き気を催し、一人泣いていた。何事も主観でしか認識できないから、主観が無くなるということの想像がうまくできない。出来たとしても主観が無くなる恐怖から僕自身を救うことはできない。

遠近法で色んな見方をして一時的に安心感を得たとしても、帰ってくるのはこの生の砂時計が音を立てて流れていくことへ恐怖し、恐る恐るその先を覗こうとして催す吐き気だ。

 

そんな臆病者なので、うっかり無意識的に、深く鈍い混沌に引きずり込まれるように死にそうになったことはあったけど、死にたいと思ったことは多分ない。冗談で言うことはあるけど、それが自分の死の恐怖を隠す意図があるかもしれないと考えるといささか滑稽でもある。

 

何度でも書くけど死ぬのは怖くないんですよ。

その先の漠然としているけど埋め込まれ、僕の内側で道理と結びついてしまった、永遠もしくはそれに近い『無』が怖い。(この)宇宙に残された物質的な時間が有限だということが事実であれば救いだけれど、実感できる範囲を超えてる時点で無限とそれの線引きができなくなる。無って何だ。わかるようでわからない。

感覚がないのが無なのか。感覚がないという感覚もないから無は感じず永遠も感じないって言うけど、感覚の喪失は事実でそれが継続的に喪失状態で復帰しないとなればそれも怖い。

 

色んな宗教的なものや理屈系のものやスピリチュアル系のものを読んでみても、どれも僕のこの吐き気を取り去ってくれるものはなかった。いや、僕の理解の問題なのはわかるけど。モードによっても変わるんだけどね。

 

 

僕の人生はいつもこんなだ。ひとりで考え過ぎてひとりで怖がって。孤独感も慣れたもんだね。

だってさ、皆で死ねば怖くないとか、皆で死んでも個別に何も感じなくなるわけでしょ。皆でって所に意味がないんだよなぁ。結局一人で生きて一人で死んでその先も一人なんでしょ。結婚して子供もいるのにそんな感覚から抜け出せないから愛という言葉にも迷うわけでして。

 

それなら衝動や意志に任せた死にかたの方が僕はいいなって。一度きりだけど確実にあるのが死なら、生き長らえるより死に場所を見つけた方がしっくりきそうだし。死んだらしっくりもないとか言わないでよ。しっくりは僕の主観とは限らないわけだから。それに、この恐怖主体のコントロールの鎖を破るくらいの衝動や意志を自分自身に見られるのなら、そんな魅力的な最期はないだろう。辞世の句くらいは詠む余裕は残したいと思ってるけど、でも辞世が可能な余裕は来世なり死後の世界なりを信じる強さがあればこそなのかなぁとも思う。僕にはその強さ、その余裕が無い。予め書いておくか…

 

その強さは、少なくともこの強情を曲げる強さを持つのは僕には難しいということがわかってきた。

宗教にどっぷり浸かれるならどんなに救われるだろう。群れの中の1匹になれるならどんなに安心できるだろう。何かを信じることができるのならどんなに楽だろう。

と思いながらも同時にそれは違うと決めてかかってる頭でっかちの不信おじさんだから…何でこんなになっちゃったんだろうなぁ。

でも結局別のものにどっぷり浸かってるのかもしれないし、遠くからあるいはもっと近くから見れば群れの中の1匹と認識してるのだろうし、不信の自分の何かを信じてるのかもしれないし。

それもこれも不信と言いながら強情に無を信じてる部分があるからなんだと思う。現代教育の弊害!また社会のせいか。飽きないな。

 

めんどくさ。

 

面白いのは、吐き気の時に浮かぶ光景、感覚がずっと変わらない(と思い込んでるだけかもしれないけど)ことだ。

保育園の時には死を恐れていて、小学校に入った時には毎夜この妄想で恐怖に怯えてた。太陽の赤色巨星化を知った時も、何かと死を想像すれば同じものが頭に浮かぶ。

宇宙的な空間が真っ暗になって、何も見えず何も感じないはずなのに時間だけが加速し続ける感覚で、それがピークになった時の吐き気や動悸でそれが終わる。

無になると聞いてから、必死に想像しようとし続けた結果感覚と結びついて自己に刷り込まれたのかな。妄想であるはずの永遠の無が感覚的になってるんですね。これは今日の発見。

本当に根底にあるものなので、ちょっとやそっとの理屈じゃ覆せなくなってる。いや、感覚と結びついてる以上理屈では最早打ち負かすことが出来ない。だって僕にとっての事実は…

 

タナトフォビア、死恐怖症なのだろうけど、死は僕の恐怖にとっては過程でしかなくて、結局のところその先の意識の連続性の喪失と永遠の無に対する恐怖。

その辺りを徹底的に論破して欲しいと望んでいるけど、どう論破されたふりをしても内側では「あなたの感想ですよね」と誰かさんのようにほくそ笑みながら、また自分自身を吐き気の砂時計に突き落とすのが目に見えてるわけです。

 

死なないと分からない以上死ぬまで定期的にこの吐き気とお付き合いなんだろうな。 

 

たとえば、僕は強情だから来世があると言われても来世の人格に移行しないと信じられないわけですよ。いや、移行しても信じられないかも。

それこそ来世があると言われても、前世の記憶が引き継がれ、意識に連続性がなければ『僕』はこの砂時計とともに尽きるわけじゃん。その恐怖は消えず、その無が来世が始まった時に無ではなくなるという確証はなく、それは来世が始まったところでわからないでしょ。無と並行して来世があって、その横には数え切れない僕とされてきたものの無が並走してるかもしれなくなくなくない?その場合僕が帰属するのは、この生の先の無のみになるから、来世とされるのは別の僕であってこの僕ではないでしょ。前世の記憶って言うけど、前世の記憶と前世の主観的意識が同列だとなぜわかるの?

えっへん!

 

もうやだ。また仮定の仮定の仮定の話で熱くなって。ばっかみたい。何に怯えてるんだ。

 

死を臆するチキンと蔑むがよい。でも君の理屈では僕をこの長年付き合ってきた吐き気から救う事なんてできないんだからねっ!

 

もう月曜日の恐怖に逃げよう。毒をもって毒を制すだ。

二重苦の幕開けだろうな…