感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

山越え 道路 2つの時間

プチ出張ももうすぐ終わり。

今日は移動以外特に用事がないので、今朝はジャングルトレイルを散歩した。

やっぱり森の空気の感触、そして香りは生の実感を想い起こさせてくれる。その実感の中にいる限り、蚊に刺されるのもまた心地よささえ感じるものだ。

昨夜の南京虫猛攻には参ったけど…

 

今は車で山越え中。世界遺産にも入ってるらしい山の脇の高原で遅い昼食。半袖半ズボンだと肌寒い。

 

この一本の道を、僕がやってきたように沢山の車たちがせっせと走り抜けて行く。

物流トラック、過積載ローリー、観光バス、自家用車、タンクローリー。本当に忙しなく、この一本のリアルを動脈を流れる赤血球のように行き来する。

そこを一歩離れた別のリアルは、その忙しなさとは無関係だ。

山間を流れ行く雲のように、涼しい高原の風にくすぐられ揺れ踊る草木のように、空を滑り飛ぶ猛禽のように、ゆったりと、まるで別の時間軸の存在のように流れている。

 

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そしてこの時間の流れは、遠い未来、忙しない人々の流れが終わり、このアスファルトさえも形を遺さない時間が経った後も優しく険しい顔を変えず、涼しく流れ続けるのだろう。

 

どちらもリアルのはずなのに、どうしてこんなにも速度が違うのだろう。人々の顔さえも違って見える。

 

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昔はきっと、発動機によって回る車が走る前はきっと、同じ道を流れる時間は1つだった。いつも同じことを思っている。虚しい癖。

 

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このコーヒーの一服が終われば、僕もこの血管を通って片方の現実に吸い込まれ、激流に流されるように帰ってゆく。憂鬱な、何も見出せない日常に。そんな僕はきっと、流れる車の中に見える顔達のような表情をしているのだろう。

実感のないリアルはリアルなのだろうか?そっちの生は現実なのだろうか?

 

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やだなやだなー。帰りたくないー!