知識であっても経験であっても、何かを習得することは明るい面ばかりが強調され、宣伝される。でも僕の中ではその逆がよく起こる。
僕にとって負の側面を持った出来事。バイアスの発生、新鮮さの喪失、感じ方の変化。バイアスを元にした捉え方が定着してバイアスのバイアスのバイアスで何かを見ている。世界も、自分自身さえも。
そのデスクの裏の埃をかぶった、こんがらがってどこがどう繋がっているのか分からないケーブルの塊のような思考を、学習はさらに複雑にさせるリスクもある。その多重の渦に巻かれる苦しみ。その苦しみから逃れることをモチーブに学習し、苦しみの渦が増えた時の絶望。
知識の習得で迷子になることもある。いや、いつも迷子になってる。プロセスが中途半端に理解できても、僕の中で理解不能だったり噛み合わないことがあって、結局迷子になる。
こいついつも迷子になってんな。
何かを習得することは常にリスクが伴うことだ。人によるのかもしれないとは書いておく。
ある人にとって知ってプラスに向かうことであっても、僕にとっては知ってマイナスになることが多々あった。そしてその他の多くは無価値であった。
無価値と認識するから無価値になるんだっていうのは分かるけど、だって僕には無価値なんだもん。
無価値ならまだいい。でも様々なリスクがある。知はリスク。
そのリスクを回避するには無知であるしかない。
無知の知というのとは違う。無知の知が、無知を認識している自分とそうでない相手を線引きし、自分を優位に自己認識する行為であるのなら僕はあまり好きじゃない。
無知の幸、知の不幸、そう書くとそればかりではないし。
僕が言いたいのは学習のギャンブル性というか… そう、ギャンブル性だと思う。
その知識が、その経験が、その人にとって合うか合わないかは習得するまで分からない。それどころか習得した後も分からないことが多いのだけど、それを認識するかしないかに関係なく多分に影響、干渉を受け続ける。
それそのものが一つの惑星のように引力を持ち、思考を捻じ曲げる。ぐちゃぐちゃに捻じ曲げられたその歪曲を認識したとしても、その星を観測していなければ原因は分からない。そして見える星の美しさは、その先にある本当に見たい物に取って代わって見えるものでもある。そしてその段階に至っては、その本当に見たいものの姿は、見えたとしても比較対象に過ぎなくなってしまう。
合理化による歪曲の先に、さらに合理化の為の比較によって生み出された幻影を見ることしかできない。月が平面ではなく球に見えるように。太陽ではなく自分たちが回転していると感じるように。
物の見え方ひとつをとっても、知識や経験の影響は計り知れない。
不幸な感覚、マイナスな捉え方、他人に対する無意識な暴力、… 遡ればその知識や経験が起因、それは言い過ぎか。中継地点になってるかもしれない。
学習のリスクはそれを学習しなければ認識できない。それがプラスに作用するのか、マイナスに作用するのか、両方なのか、無価値なのか、ある時には価値が有ってある時には無いのか、様々。
であるならば学習はギャンブルだろう。結果は行為の後にならなければ分からないのだから。主体的な知を引っ張る欲求は、どこか射幸性に似たところがある。僕にとっては。当たった時はでかいっすよ。当たったと思っても後になってハズレでがっかりすることもあるけど。
では義務教育は?主体性を無視した教育は?
客観的に見て正当化できるものであっても、こと主観の世界においてはそうとは限らない。ではその客観世界への適応の為に、個々の主観を、精神を、思考の行く末をギャンブルに託すことを、その客観世界の人々はどう正当化できるのだろう?
それが客観世界の為にやることなのだから、主観世界のことはどうでもよいとしよう。割り切り。
でもやっていることがその個々の主観世界にとってはギャンブルの強制であるという認識は必要なのではないだろうか。
生はギャンブルだ。ギャンブルの連続。
でもそれを強制しておいて、一つの見方で結果を正当化するのは僕は違うと思う。強制するなら別の見方も認めろってまたいつもの…
いつにも増して何が書きたかったかわからない。
なんかこう、辛そうな人を見て「この人もギャンブルに負けてそれが尾を引いてるんだろうな」って、そう思った。それだけ。