何だか最近いつも眠い。何をしていても夢の中に居るようだ。完全に夢の中ならいいけど中途半端。夢やマインドワンダリングの世界と現実と呼ばれる世界の意識の境目が薄まって、混ざってしまったかのよう。ぼんやりして中途半端。
しっかり寝なくても眠いけど、しっかり寝たつもりでも眠い。半分ここに居ないような感じ。
ここってどこだ?いや、物理的に居る場所の住所くらいは分かるけど、そういうことを言ってるわけじゃなくてですね。ここってどのここだ?の方が心象的には正しい。でもその『どの』を認識している、又は錯覚している主体が定まらないし、だからそれらが指すここも分からない。
僕はいつも迷子になるのだけど、これもまた別の迷子なのだろうか。
昨日食糧を買い出しに行って、結構な重さのプラスチック袋を運んだら、右手中指第一関節の神経か何かを傷めてしまったのか、麻痺した指先の感覚がまだ戻らない。最近の意識は丁度こんな感じ。
やらなきゃいけないことにも中々身が入らないからストレスは溜まる。それがなければ、ただ身を任せていたい心地よさもあるのだけど。読んでいた本も進まなくなってしまった。
ブログを書くペースが落ちたのも、僕は今こんな感じなのであんまり出てくるものがないからだと思う。踏ん張っても出るものが出ないのならトイレに行っても意味がない的な。
そういえばここを開いて昨日でちょうど一年だったらしい。一昨日だったかな。まぁいいや。
内的には激動の一年だった。ここ三年くらいずっとそうなのだけど、変化が多くて追いついていかない。それがお仕事が進まない言い訳として理解を得られればどれだけ休まるだろうか。
変化が多くてって、誰が変化を欲してそれをしているのかと言えばまぁ僕なんだろうけど。いやでもさ、そうしないと何事も手がつかないから…先ずはスタート地点にですね…
じゃあこれを続けていればスタート地点につけるの?価値観の合わない仕事に手がつくようになるの?掘り返せば掘り返す程、自分の価値観を肯定すれば肯定する程、合わない仕事に手がつかなくなることには気づいてるはずだろう。
いやでもね、じゃあそれを押し込めてまた同じことを始めるの?いや、もうできないでしょ?
一生迷子を認めるか、それでもと探求を続けるか、それとも放棄してオートマトンになるのか。いや、なんでそこでオートマトンなんだ。そう感じていた?いやでもそればかりでもなかったじゃない?
でも記憶の中のどれを掴めばいいの?その記憶ほど曖昧なものはないというのに。大体内容なんていつも覚えていないじゃないか。感情的な解釈の雰囲気だけで記憶されていて。背景だけしかない中に映っているのは影絵で、その影絵は都合のいいものだろう。
その影が見えないから辛いんだろう?顔が見えれば、表情が見えれば安心するかもしれないのに、それがないから。じゃあ表情のある記憶は何だろう。それは妄想かもしれない。あいつがあんな顔をしたことがあったか。するはずがない。記憶の表情が見えないのになぜそう言い切れる?だって、想起する度に、詳しく見ようとする度に顔がぐちゃぐちゃになるじゃないか。笑ってる顔も、怒ってる顔も、混ざってる顔も、歪んだ顔も、どれも再現できるだろ。そう、再現。それもその都度都合の良い。分かっていたんだろう?
そうね、そうだね。でもそれを言うのはロジハラでしょ…そんなこと真面目に受け取った側はまた迷子になってしまう。どのみち迷子だけど、記憶すら参照に値しないとされたなら、孤立もいい所じゃないか。
僕はいったい何がしたいのだろう?そもそも僕とはどれなのだろう。霧の中の影のように『なんとなく』バラバラだったものを、どうしても気になって突き詰め、形を見てしまう。それを認識してしまえば、それはもう霧の中の影ではなくなってしまう。初めは砂粒としか認識していなかった砂粒の中のアリジゴクをアリジゴクだと認識してしまえば、次からはそれはもうアリジゴクでしかないように。でもそれは本当にアリジゴクなのだろうか?よく見て。ほら。見れば見るほどに分からなくなる。
僕が僕として何がしたいのかが定まらないのは、そのバラバラの自分達が少しづつ意見がずれているからだ。180度裏側まで居る。せめて君たちの仲が良かったなら…
問題はこれが実際にバラバラなのか、それともバラバラなものを作り出しているのか。玉ねぎ全てが僕なのか、一枚一枚が僕なのか。
そんなのどうでもいいと言えばどうでもいいのかもしれないけど、僕としてはかなり深刻なの。だって180度逆の意見まで抱えて、いったいどの声に耳を傾ければいいのか分からなくなってしまうから。
より正確に言うならば、パッと頭に浮かんだ応答を、既に逆側から精査している僕がいて、それを更に別の見方で精査する僕がいて、そして更にという流れになる。
自信のなさからの疑念。自信のなさ?攻撃的なものを避けたいのではないか。結局のところ同じだ。取り敢えず口に出すのを躊躇って作り上げた視点で精査していくからそうなる。視点。そう。彼らは僕の視点なんだよな。別の視点から見ることを勧めるのは良いことばかりではないと思う。視点というのは、捉え方というのは、僕の経験論から言えば増やすためには人格を増やさなければならない。
このプロセスはミミックの様なものだ。
『人の気持ちになって考えろ』
これが元凶なのだろう。人の気持ちになって考えた結果がこれなんだよ。さらに言えば、それは彼らを肯定する為。何故肯定しなきゃいけないの?それはわからない。
その人を取り込むというのとは違う。あくまで複製。不完全な複製。シミュレーターの様なものでね、その人の反応を感情面の動きから再現していく。土台になっているのはどれも僕なはずなのだけど、不思議と再現できるものが多い。感情の動きだけ見るならば、人間の反応は割かし単純なものだ。でも苦しいよ。
苦しいのになぜそれをするの?そりゃ、もっと苦しいものが嫌だからだよ。人を傷つけてはならないから。それはその人の為かと言われれば違う。自分のためだ。自分が傷つかないため。結局のところ、根本の根本にその恐怖と不安があるから、外側の恐怖と不安には特に敏感なのだろう。排他的なものになぜ嫌悪があるかと言えば、多分自らの排他性が怖いから。内的なモラルも突き詰めれば自己投影に過ぎない。外の世界で触れる怒りにはそういったものが見え隠れするから嫌い。直接的に作用する。ボン!と内臓を揺らすウーファーのように。干渉。
悲しみや痛みはどうしてそうならないのだろう。それは内向きなものだからかな。沈んだ先で酸に身を焼かれたとして、水圧に首を絞められたとして、自らの手を自他の血に染めたとして、その内的な経験はその人固有のものだ。それでいて僕も経験するものでもある。前提さえ持っていれば。
同じ痛みなど、その人の感じ方など分かる筈もないのだけれど、僕自身のものとして僕なりに再現できる。
例えばさ、僕はリストカットをしたことはない。だからって分かろうとして手首を切っても物理的な痛みしか感じない。そうではない。
材料として、極限まで沈んだ時の自分、孤独感、自罰感情、怒り、疲れ、そして止まらない思考が先ずある。そんな時になぜ髪の毛を引っ張ると楽になるのだろう。動物も毛を引き抜くように。指を跡がつくほどに抓ると感覚がそこに集中する。カッとなった時に行き先がない手を壁や床に叩きつけるのも大差がない。外に向かうか自分に向かうかの違い。それは大きく違うけれど、あまり違いがない。強いて言うなら自分に向かう方が両面で満たせる。
痛みに対する生の実感。血を見るとなぜか自分が生きていることに気付く。実感に安心する。頭が止まる。ようやく。禁断の果実は特効薬。
経験はないとは言ったけど、すれすれなのは昔何度もあった。
何が言いたいのかといえば、どこまで緻密に再現できるか。それはどこまで本気なのかということ。そうでしょ。
積み木遊びのようなものだ。元あるものを使って積み上げ、見て感じたものを再現する。崩してもう一度。崩してもう一度。
人の数だけ、その瞬間の数だけ感じ方はあるから、その再現は終わることはない。よくよく考えるとそういうものをアップデートするために生きてるのだろうか。
理解したい。
理解してどうするの?わかんない。なんでこう、分かんないことばっかりなんだろう。なんでそれで苦むのだろう。知っても知っても知った分だけ疑問が増える。かと思えば知ったと思ったものが知ったのかすら分からなくなってまた迷子になる。
お預かりセンターに住んだ方がいいよ。誰も迎えに来ないけどね。それでも誰かが迎えに来てくれるかもと期待してしまう。
途中でスイッチ入っていつもより一段と意味わかんないのになった。どこでスイッチ入ったか分かり易くて笑える。これ聴きながら書いてたからかな。
SHADOW WORK MEDITATION ❁POTENT 0.25 HZ Binaural Beats High States Of MEDITATION❁ Spiritual INSIGHT
何でそんなの聴きながら書いてたのかって、まぁなんか期待してたんだよね。藁にも縋る思いなの。
最近こういうの投稿するのは少なめだったと思うけど、約一周年だから無修正で上げちゃう!久々の羞恥プレイになんか興奮する。
でも真面目に3800文字強を読んでくれた人がいたら申し訳ないです。ごめんね。でもここはチラシの裏だよ。