感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

理想と暴力 純愛と不純

理想の愛、理想の恋、 理想の家族、理想の生活、理想の死に方、理想的な子育て、理想的な社会人、理想とは何なのだろう。

通念から考え方がずれている僕にはどれも価値観の押し付けにしか感じない。考え方が合わなさすぎて疎外感すら感じる。

 

一般的な通念と考えが合う人たちにとってこれらの理想は本当に理想なのだろうか?

 

理想と呼ばれるものは「こうあるべき」という枠づけ、定義づけ、形作りだと思う。

理想の形を先に作ってそれを目指し、その枠に入ろうと努力するのが好きな人、誰かが作った枠の中にいると安心する人は多分多いのだと思う。だから世の中そういうことが多い。

でもその理想はどこかの誰かが勝手に作ったもので、当てはまる人や当てはまる関係の人々もいれば、そうでない人たちも多いものばかり。

それどころかその理想を掲げた誰かの『理想』であるので、その価値観上で高く据えられている場合が多いと感じる。

高く据えられた理想という言葉は、掲げた本人以外からはその掲げられた理想しか見えない。その理想の枠の外のものは理想に見合わない『非理想』の一言になってしまう。

 

それらは言葉の上では飽くまで誰かの作った理想でも、多くが集まる内に社会が共有する通念、固定観念になってしまうのではないだろうか。そしてそれらは無意識の圧力となって人々にのしかかっているように感じる。

 

そんな理想で溢れた世の中は理想を追う人たちにとっては生きやすいのだろうか。

 

理想に届かず気を病む人や、考えが合わず自分を見失う人はいるだろう。

誰かの勝手な理想を関係する誰かに当てはめてその人本人を見誤る人、関係を見誤る人、人を傷つけてしまう人、傷つけられる人も出てくるだろう。

枠である以上その誰かの勝手な理想によって人を排斥する人、排斥される人も出てくるだろう。

 

通念となった理想は人々の価値観を侵食する悪魔のように感じる。

捻じ曲げられた価値観はその人だけでなく、人と人の関係を壊し、生まれるはずだった人と人の関係さえも壊してしまう。

 

理想は高い枠であるだけに、自分がその定義に入ると安心感だけでなく優越感も得られるのだろう。その麻薬のような言葉に浸かっていれば傲慢になり、排他的になる人もいるかも知れない。

 

個は個として、その間にできる関係にはそれぞれのあるべき姿があるのに、理想はそれを許さない。枠だけ見るようになれば個の在り方は尊重されない。

 

人や関係を狂わせ、社会の圧力をも生みだしてしまう『理想』という言葉は恐ろしいと思う。

 

社会の共有する理想は幻想を生む。

理想的な愛の形とされる『純愛』という言葉もその類だと思う。それは確かに一定の価値観の中では美しい。実際に存在する形でもある。

でもその西洋文化的な価値観が正しいとされ始めたのはごく最近のことで、現代でもその価値観を受け入れていない社会は沢山ある。

しかし純愛は沢山の形があるであろう愛を、そうあるべきものだと固定しようとしている。

 

純愛は比較的身を置きやすい手頃な位置である理想だと思う。それはいつしか正しさを持ち、法の後押しも手伝い、枠の外である『不純』を排斥するようになった。

不純が正しいとは言わない。でも関係の一つである色々な形の不純は、その人たちの間の関係でもある。それは本当に叩かれるべきなのかと考えることがある。

関係者ならまだしも、不純だからという理由だけで中身を知らない人たちにも叩かれる。それは私刑であり暴力でしかない。

一部のイスラム教徒がレイプされたと主張する女の子を石打刑で死罪にするのとあまり変わらないと思う。

 

不純は人を傷つける。それは僕は嫌いだけれど、そもそも不純でここまで人が傷つくのは、純愛が理想として正しさを持つようになったからではないかとも思う。不純は純愛が正しい世界でしか不純として存在しない。

 

『精子戦争 性行動の謎を解く』という本の中で、「同じ父親から生まれたと思っている子供の3人に1人は違う父親の子供だ」というデータを著者が紹介している。それを日本に当てはめるわけではないが、どれだけ罰則を設けても、非倫理だと叫んでも不倫という不純が無くならないのは、ヒトとして自然な現象だからだと僕は思う。

それを認めないで不純だからという理由だけで反射的に反発するだけでは問題は繰り返すばかりか理解が進まない上に暴力ばかりが起きる気がする。

類人猿、人の歴史、日本人の歴史から見れば純愛は自然か不自然で表せば不自然の側にあると僕は思う。不自然が社会として正しさを持って、人はヒトでも数百年前の人でもないと言えるほど傲慢に生きれるの?

暴力を本能的な目的とするのが自然とするならば納得するけど、そうあって欲しくはない。

 

先日『在り方を認めること』が理解の基礎だと書いたが、自然な現象として不倫の発生を認めることは、不純を正しいと認めることとは根本的に異なる。理解のために必要な一歩だと僕は思う。

しかしそれすらも許されない空気がある。

 

その空気すらも作り出したのが理想という幻想だと思う。幻想を正しいと思い込んでいるうちは原因を理解できない。

それは愛で溢れる世界を作るどころか、愛の名の下に暴力を容認する狂気だと思う。

 

長すぎる例となってしまったが、沢山のものごとがこの構造になっていると思う。

いじめや虐待、育児放棄、数々の差別もこの構造がある限り根本的にはなくならないと僕は確信している。

 

 

個人が理想を掲げるのは悪いことではないと思う。でも『私にとっての理想』として言い表し、受け取る側も『あの人にとっての理想』と受け取るようにしないと傷つく人ばかり増えるような気がするのです。

そして観念の悪魔が加速度的に巨大化しやすい情報社会では、僕たちはより気をつけなければ大きな怪獣を生むことになると思うのです。

 

理想なんて所詮誰かの勝手な感想なのに。