感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

死刑

死刑に関しては国によって考え方が違う。それはいいと思う。それはその社会の選んだことだから。

日本が社会として死刑制度を続けるのもまた、社会がそう選んだのならいいと思う。

僕は制度の在り方が現状のままなら反対側なのかな。

 

刑務官が3人で同時にスイッチを押すというのはおかしいと思う。

誰の為の死刑なのだろう。

 

社会との契約という理由付けがある

社会があり、司法制度があり、刑法があり、それを社会が選んだ以上それはいいと思う。

でも社会として死刑を続ける選択をするのなら、社会の参加者が執行するか、そうでなければ社会全体が刑の執行を見届けるべきだと思う。

刑の執行、死と向き合わないでなぜ死刑を続けられるのだろう。

業は刑務官と機械に分からないように背負わせるというのは、虫が良すぎると思う。

 

どこかの国のように見せしめのためばかりに公開処刑をやれと言うわけではないけれど、そのくらいのオープンさがないと他人事で終わってしまう。社会との契約というのなら、社会の一員としてその一端を担っているくらいの認識が必要なのではないかと思う。裁判員制度が出来て久しいが、刑務員制度でもやってはどうか。

生にばかり固執して死から目を逸らしてばかりいるから、死刑が最高刑という価値観が出来上がるのではないかとも思う。

 

 

犯罪抑止という観点。

人間が動物としての衝動や激情がある限り、その瞬間においてはその抑止は成り立たないと思う。

計画的な犯行が増える?それを計算できる人間は死刑でなくても抑止になると思う。この辺りは計れないのでやめておく。

抑止というのならやはりどこかの国のように公開処刑を…

 

被害者の尊厳、遺族の被害者感情を挙げる人がいる。

でもそんな遺族によって考え方が違うこと、時間経過によっても変わることを根拠になんてできないと思う。

もし遺族の被害者感情を晴らすためだというなら、なぜ遺族に執行させないのだろう。

2重に苦しみを与える?犯罪者とはいえ人の生を奪うのであれば、背負うものがあって当然だと思う。恨みを晴らすのならそのくらいの覚悟があって当然だと思う。

 

生ばかり求めて、嫌な死から目を逸らそうというのは何か違う気がする。ましてや社会として認めている死刑制度においてまでその態度をとるのは何か嫌。他人事過ぎる気がする。

なんでこんなこと考えてたんだっけ。

 

 

*追記

加害者の尊厳のためという理由付けもあるらしい。

これ一番嫌いかもしれない。

 

共有するルールとしてとはいえ一方的に裁いておいて、裁く側の理屈で勝手に尊厳を与えた事にするのは横暴過ぎると思う。その正当化は必要なの?

ルールが線引きであってそれを根拠に裁くのなら裁く側の態度を取れと思う。執行も執行の態度だと僕が感じられないから気に障るんだろうな。

 

例えば僕は職業選択においても、プロジェクトにおいても、関わるのであれば責任を負う覚悟は持つべきだと思う。関わるということが認めること、それを動かす部品の一部となる事と認識するから。

裁く側、執行する側の人間が自由意思で職業選択するのなら、個人としてその態度を示すべきだと思う。国が彼らに対しできるのは死を与える苦痛を和らげるのではなく、ただ苦痛分を上乗せした給与待遇の改善に尽きると思う。

 

でも、そもそもが彼らばかりに背負わせるのがおかしいと思うから、やはりルールを共有する皆で人を裁くこと、吊るすことを共有しなければいけないと思う。

 

間違いを犯した人が出るとすぐに吊るせ吊るせという人たちが沢山いるけど、その対象を排して自分の暴力性を正当化する態度が嫌い。人は己の残虐性、暴力性と向き合わなければいけないと思う。僕も含めて。

裁くことも、刑の執行も、色んな社会問題も、他人事である限りヒューマニティから離れていくことになる。そしてその先に解決はない気がしている。

 

朝から暴走気味だな。ここまでにします。

こういうのって死生観も含めて色んな価値観が反映されるんだろうな。おもしろい。