僕は雑草が好きだった。
小学生の頃、小さなコップに水を入れ、そこに摘んできた花や葉を挿すのが好きだった。実家が美容院なので、そこに飾ったりもした。
一番最初に覚えている動機は、それをすると母も祖母も喜んでくれたから。とても嬉しかった。最初に教えてくれたのは祖母だった。
自然が好きだった。
都心へ向かう電車の走る、ドーナッツの端っこのような町で生まれた。駅から数分の線路沿い、祖父が建てた小さな雑居ビルに住んでいた。1階に祖母の美容院、2階に塾、3階が僕の家。
アスファルトとアスファルトの間、建物の土台の隙間、線路の柵の下、小さな公園の端っこ、街路樹の植え込み、駐車場。自転車に乗れるようになって行動範囲が広がるまでは、そういう場所が唯一僕がひとりで自然と接することができる場所だった。
オオバコ、スズメノカタビラ、カタバミ、オオイヌノフグリ、セイヨウタンポポ、春にはツクシも摘んだし、秋には線路の柵をくぐってススキも摘んだ。季節のものは特別な感じがして嬉しかった。
ほんのり涼しい春の風を感じる半ズボンの脚、それを暖めてくれる柔らかな日差し、カラスたちの少し不気味な、でも聞き慣れた声。
秋の赤焼け薄暗さが迫ってくる空、寒さが強まる中感じた夕方の焦燥感、硬いススキを引っ張った時の感触、電車の通り過ぎる轟音と軋むような音、ゴムの焼ける臭い。
家に帰りたくない。もっと外に居たい。早くススキを挿したい。色んなものが蘇り、込み上げてきて息苦しい。
子供に戻りたい。あの家に帰るのは躊躇するけど、子供に戻りたい。全てが新鮮で新しく、こんな余計なことばかり考えずに色んなことを感じることができた。あの頃は余計なことなどなかった。小さなものも大きなものも、よくわからないものも、いつもそこにあるものも、今日初めて見るものも、その時々で違う風や空気、そして空や景色も、全てが何かを与えてくれていた。感覚。最大限の、制御のない感情。
早く着いた1人のオフィスで書いているのだけど、涙が出てきて止まらない。色んなものが蘇ってくる。景色、情景、感情、感覚、感触。深呼吸しよう…
ここ1ヶ月は涙なんてあんまり出なかったけど、幼少期を想起するとこうなる。フラッシュバックとは違うんだけど、本当に色んなものが詰まりすぎているから開けるのが怖いのかな。それが本来的だと感じるから、後発の僕は怖ろしくなって子ども時代の僕をぐるぐる巻きの亀甲縛りにする。
知識も経験も全て捨ててしまいたい。新しさばかりが失われていく人生に何の希望があるのだろう?新しく見るものも、触れるものも、殆ど全てが既にある経験や知識に紐付けされてしまって、結局は合理化の産物でしかなくなる。頭も制御も全て捨ててしまいたい。僕を縛り付けるもの全てを…
あー、馬鹿らしい。お仕事とか糞喰らえだね。苦しみながらお金をもらって生活して、生きながらえて、その先には色褪せていく世界しかない。僕自身がもうあの頃のように感じることは出来ない。そう見るためには、そう感じるためには、思い込むしか手立てがない。でもそれじゃないんだよ…
戦であれなんであれ、30代で多くが死ぬ世界というのは幸せだったのではないだろうか。その鮮烈さを失った世界には、そもそも色も何も残っていないのかもしれない。残っていても色褪せていて、その色褪せた人々が意思決定をするのだからもっと色褪せる。何もかもが。鮮やかなものを色褪せたものが上塗りして。色褪せたくなかったな。これ以上色褪せたくないな…
そう考えると僕がこれ以上生きながらえるのも害悪の一種でしかないんだろうなぁ。ため息しか出ないね。
ボケや幼児退行は、脳が最後に与えてくれる褒美なのかもしれない。色褪せた苦痛を味わいつくした後に、全てが終わる前に与えられる褒美。僕はそこまで生きれる気がしないし、望まないけど。
暴走してるなぁ。話を戻そう。
雑草たちは街の小さなスペースで力強く生きて、街路樹や鉢植えの花のような強制された生ではなく、主体的な生を教えてくれる。
違う。書きたかったのはそれじゃない。
あー、何が書きたかったかもうわかんないや。おしまい!
お仕事しなきゃ。馬鹿みたい…