FBやネットの記事を見ていても、なんかすべてが胡散臭く感じてしまう。
動物を助ける映像とかも回って来るけど、「なんでカメラが回っていて、しかも記事になってるんだろう?」とか、そっちが先に疑問になって素直な気持ちで見れない。
ドネーションを訴えるものとか、環境にやさしい商品とかもよく目にするけどそれも同じ。
そういうのも重要なんだろうと思うけど、でもやっぱり僕はその尺度で物事を見れないし、信じることが出来ない。うーん…
そんなことを繰り返していたせいか、気づいたら全部懐疑の視線で見ている自分がいる。
いや、それで色々回ってることは事実だし、それはそれでいいんだよ。いいんだけどさ、それを良しとしきれない自分がいる。それもまぁ良いんだよ。
僕が嫌だと感じるのは疑り深い自分の存在。僕はどうしてこんな僕になってしまったんだろうっていう風に考えている僕がいて、それでも自分の価値観に合わないものを本物だと認めたくない僕がいて(彼は騙されることに極度の不安がある)、更にすべてを認めなければいけない、そうするべきだと思っている僕がいる。
割と中心の方に居る僕はそういう疑り深さとかは嫌いで、もっと無垢な目で物事を見たいと思っている。それでもその目がバイアスに惑わされない為にはどうしても懐疑的な部分は必要になってくる。でもそれが嫌なの!って。
もうわけわかんないね。
あああああああああああああああああ!って叫びたい。
多分同じようなこと今までにも何回も書いてるよね。飽きないなぁ。
全てが鬱陶しい。僕自身のぐちゃぐちゃも全部鬱陶しい。
それでも表面上は取り繕って生活してる。
思考回路を粉砕し、全てのコントロールの鎖を全て断ち切ってしまいたい。
やっちゃおうか!って考えるじゃん?
それをしようとすればする程、鎖はより強度を増して僕を締め付ける。三蔵法師が孫悟空の頭に付けた輪っかみたいな感じかな。
そして反転して反転して反転して、そうしてる内に鎖はスパゲティのように絡まって。スパゲティはそんなに絡まないよね。ビーフンにしとく。
色んなものが虚偽や欺瞞に見える。そんな中に居ると更に自分も汚れていくような気がする。それどころか自分の存在さえも疑問視しなければならなくなる。今見ているものも、記憶も、思考も、感情も。どれとどれとどれが、どこからどこまでが自己欺瞞なのだろう?
でもそれは、そうなってしまうのは、この中に居れば自然なことなのかもしれない。
それでも救いがあるのは、別の軸で、君や君や君や君や君との一対一の関係があるからで、その交う瞬間だけは僕は信じるまでもなく本物だと感じることが出来るから。それが本物だから僕の存在も直接的に事実になる。実感を通して。
それさえも信じることが出来なくなったらどうなってしまうのだろう?
虚偽、欺瞞。
嘘が色を増して僕らに迫る時、その反対側で目に映る、体感する色んなものが薄くなっていく。そして、だからこそより強い実感が欲しくなる。必要になるのだろう。それは均衡を保つため。
なぜならその均衡が崩れたままになっていれば消えてしまうから。それは当たり前のことなのかもしれない。
自分の存在を自分自身が否定しなければならない。恐らくその均衡の為に。
現代はその苦しみに溢れている。そして消えてしまう。ひとつ、またひとつと…