感じたこと、思ったことノート

日々の生活の中で感じたこと、思ったこと、考えたことなど。主観の瞬間的垂れ流し。

お金 力 権力 コネ

お金は力。それは現代社会というものを見たときには明らかな事実だろう。

大きな社会を回す、その上に立つ小さな社会はどこもお金の力を最大限に活用している。

 

華僑の人たちはそれを本当に理解しているのか、既に民族的な本能となっているのか、その多くはその力を得る立ち回りを最優先しているように見える。教育にも鼻が利き、歯車になるような教育を受けさせる人は少ない。子供というのも投資対象として見ているし、それが多くの場合成り立つ。兄弟の中でそういった生活に馴染めない性質のものが居ても、一人が成功すればビジネスは広がるし、その中で彼は役割を見つけることもできる。とても理にかなったシステムに見える。

そうやって資産は増え、元手を早期に手に入れた層は既に家族の不労所得だけでも暮らせるレベルになっている。既に財産を持った家族にとっては息子は働かなくても愛する息子であって、そこまで咎められることもない。何より、お金のない者の妬みなど気にしないのだ。羨ましい限り。

 

生活はビジネスが最優先だし、子供の頃からコネ作り・維持を目的とした会食やパーティに慣れ親しみ育つ。お金は文字通り崇拝の対象にもなる。

彼らは権力には拘らないが、権力がお金に吸い寄せられる。そしてお金はそこに取り入るコネを生み出すものでもある。

これはユダヤ民族が宗教や立場を利用して社会における強さを築き上げた姿と似ていると思う。双方本当の意味で祖国と呼べる所属先がないからという解釈もあるけれど、まぁそれもあるのだろうなぁ。

コネ。祖国という妙な縛りがないから、コネというものの持つ力を見誤ることがない。お金の見えない余計な繋がりも無理して維持しようとしない。合理的だと思う。

 

一方祖国という拠り所を持ったイスラム教徒は、いかに身内を騙すかが基本になる。一度その基盤を生かして権力を持てば、権力を盾に使いながらもやはり騙しながらお金を蓄えていく。その騙す手立て、システムを生み出す能力は仕事を通して受け継がれるものなので、上に立つようになる者は皆がそれをするようになる。それを良心が咎めるような人はそもそも上に立てなくて早期に退職することになるけど、それを自分の中で正当化するだけの良心を備えているからそれを苦としない。何かを手に入れてはこそこそ切り売りするのが好きなのも、どこかパレスチナ問題の序盤の姿を見ているような気分になる。

彼らは低所得層の不満にはしっかりお金をばら撒き、求心力を得るし、その中でも自分の分を抜き取ることは忘れない。中途半端な教育を受けた層による腐敗防止運動は起こるものの、彼らも従属や無力を根底に植え込まれている者たち。結局その運動は大きく広がる前に終わることになるか、それを利用する別の政治組織に取り込まれ、政権が変わって同じ腐敗を繰り返すことになる。権力がお金を生み出すのがこっち。

 

この二つの小さな社会が生命維持の器官として、ここの大きな社会を回している。

 

 

日本の場合も概ね同じだと思う。その2つの境界が薄いだけで、所謂上流社会というものがお金を回し、密接に関わる権力が支配する。それはある意味で当然の原理。

資本主義というものはその金の力の権化だと思う。お金に力があるからこそそそれを原動力に社会が回るけれど、それを回す根拠が己の力を増すこと、お金を増やすことにあるのだと思う。それはまた議会制民主主義ととても相性の良いものだ。

民主主義では権利を自らの票の力で得たと(実際に得る面もあるのだろうけど)錯覚することになる。居るだけで社会に意思決定を及ぼす力だと感じることができる。

でもその勝ち取ったと感じた権利は実際のところ、与えられたに過ぎない面が強いのではないか。

 

民主主義の意思決定に1票に価値がないと言いたい訳ではないの。でも過信も良くないと思う。1票の格差だって是正できる筈がないものを『(力は)平等であるべきだ』っていう謎の前提のためにワーワー騒いでる。

歯車が歯車として存在するなら、歯車としての自覚が必要だと思う。そこに生きがいを見出して、労働者としての誇りを持てばいいのにと思ってしまう。

歯車が嫌という癖に中途半端に稼ぐことや同じ票の重みの幻想ばかりを肯定して、沢山稼ぐ人やそれ以上の摂理は認めようとしない。ルサンチマンは別に良いけど、人をすぐ巻き込もうとするのはやめて欲しい。

 

僕自身はお金にそこまで興味がわかない。それどころか嫌悪感さえ根付いている。でもこっちの華僑のお金持ちと付き合ってて感じるのは清清しさ。お金というものに関して彼らの内側には余計な道徳観という名の良心(笑)と(社会の内側で生きながらえること前提の)リアリズムの鬩ぎ合いみたいなのがないから、無意識に価値観の土俵に引きずり込んでくることもない。

結局お金に関する僕の嫌悪感も、その謎の道徳観が適用され、押し付けられる場に限られるんだなぁと思う。そうでなければもう少しお金ともまともな付き合いができる気がする。土俵を持ち出されると意地になってしまうんだろうな。

 

お金というものに関しては、それが全てではないと思う自分がいるし、その自分が本来的な自分だと感じるからそれを大事にしたい。

それが植えつけられた価値観に対する反発的な憎悪、正にルサンチマンというのも分かるのだけど、結局のところ、土台がその価値観に合わないからその生き方ができないのだと思う。なら自分の今の価値観に従うしかない。

 

役割という観点からすれば、力を持つことが宿命付けられた生粋のリーダーというのがいるわけで、少なくとも僕はそういう表舞台に立つ役割ではないということだと思ってる。

人を引っ張る人こそ人間だ!すべての人がリーダーになれるようにしなきゃ!っていうような考え方を押し付けられるのが嫌いなのは、少なくともそれを押し付けてくる人たちより僕は、僕自身の中では理解しているつもりなんだろうなぁと思う。僕って内側では意地っ張りなんだもん。だから割り切れないんじゃなく割り切ったら負けだと思っている節がある。

 

でもそういう僕と価値観も性格も合わない人たちもきっと、そういう役割があってやってることなのかなぁとは思う。本来的にはその違いの中でも回ったんだろうけど、今はそういう時代ではない。

現代みたいに中途半端に個人主義を掲げられるなら、僕はそれを最大限の逃げ道として活用するしかないんだよね。

 

色んな価値観、色んな考え方が尊重されるには、ある程度住み分けを許す余地が必要なんだと思う。一億総中流とかそういうのは勝手にやってくれればいいんだよ。勝手に他人を弱者の仲間扱いして巻き込まないでくれれば何も文句は言わないよ。

僕は強者弱者以前に土俵に上がりたくないだけなのに。あー隠遁したい。