感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

辛さ 痛み 悲しみ 苦しみ 孤独 恐怖

個人的な僕の世界の話。

生きてるだけで苦しいし辛いことばかりだけど、それを取り除いて欲しいと思うかっていうとそれは違う。

自己否定ばかりして辛いけど自己肯定感を持ちたいかというとそれも違う。

辛いことを辛くないと感じることは出来ないし、それに余計な意味をつけるのも違う。

ある種の必然性を感じる中で生き、そう感じることは認めるしかない。

辛い経験があったから良かった!とか、気質は生まれ得たギフトだとか、それも違う。

僕が色んなものに自分の捉える意味が必要になるのは、単に別の世界の価値観が僕に意味を押し付けてくるから。だって違うんだもん。

 

 

ただ僕はこう感じてこう捉えてこう思ってこう考えるだけ。

それを認めろとは言わないけれど、せめて吐き出すぐらいは許してね。

 

苦しみの中に居る子というのに僕は凄く反応するのだけど、仮に僕がそういう子と関わったとして、何かができるとも思わない。ただその子が死んでしまうのは辛いけど、その辛さを背負ってあげるなんて無責任なこともできない。

 

結局のところ多くの場合、その子は自力で切り抜けなければならないと思う。特に内側の問題は。結局僕の世界の例としてのサバイバルブックを渡すくらいしかできない。

苦しみや痛みが糧になるとか知ったことじゃない。ただその必然性の中に在る子からそれを奪っても何の解決にもならないと思う。だって僕の基準は僕なんだもの。

 

個人として同じ目線で話は聞くし、個人としてアドバイスはするし、個人としてその姿に辛さや悲しみを感じるかもしれないけど、それ以上踏み込むのは難しい。どんなに僕が辛いと感じても、もどかしさを感じても。

人にやられて嫌なことはするなって教わったからね。実際それが救いになるとは思わない。救いになる子もいるんだろうけど。

 

そこでその子が死んでしまったのなら、せめてイレギュラーな世界に生まれた悲劇を嘆き、その健闘を称え、亡骸を背負ってあげることぐらいしか僕にはできないのです。

 

 

彼らはこの世の中では当たり前のように死んでしまうけど、彼らの死を当たり前と捉えるのは違う。

そこに共通性が見いだせたとしても全て違う生と死。似た軸であっても全てが違う苦しみと痛みと辛さの結果。それを前にして「彼らがそう感じることを尊重しなければ」というのは本当に辛く、想像しなくても深いドロドロの世界が見えるわけだけど、それでも必要なことだと思う。

彼らが辛い思いをすることを認めろというわけじゃない。彼らが辛い思いをして辛いと感じるならそれは彼らにとっての事実だし、それを他人が取り除くことが必ずしも救いになるとは限らないと思うというだけ。

 

辛さ、痛み、悲しみ、苦しみ、孤独、恐怖。特に僕のような種の人間にとっては必要性のあるものだと感じる。でもそれを他人に意味付けされたら僕なら怒ると思う。

他人の口からどうこう言うのではなく、本人がそう感じることを先ずは尊重しなければ、その彼が無意識に感じているかもしれない役割すら否定するかもしれないということなのかな。

 

自分で書いてて意味が分からない。

まぁ助けたいと感じてそう身体が動く人はそれが役割なのだろうし。ただ僕はその役割にないというだけなんだけどね。

 

本当にそれだけなのだろうか。

辛さ、痛み、悲しみ、苦しみ、孤独、恐怖。

あ、死から目を背けることに対する疑問に似てるのかな。

うーん。

 

すっきりしないなー。嫌な夢見そう。