感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

久々にFBに書き込んで感じたこと 心の呵責 隠遁

ここ数年FBに書き込むのが億劫だったのだけど、今日は率直に思うことを書いてしまった。そういう気分だった。

 

ある事柄について、自分の思っていることを率直に書かないといけないなって思った。

僕の好む立ち位置が特殊で、いつも外から眺めるような位置に居たがる。本当はそこで口を挟みたくないのだけど、僕の大切なことが侵害されそうになると色んな感情に飲まれるわけです。

今回は僕が関わっていることだから、僕がそこに口を挟むことは誰がどう見ても正当なのだろうけど、そう思い切ることができない自分がまたよくわからない。

 

多分今回も、他人の価値観に対して拒絶する意味がこめられていると感じるからだと思う。でも僕のような人間が口を挟む場面ではそうなってしまう。だってそこに違和感を感じるからこそ口を挟むのであって、いくら言葉を歪めても、多くの場合僕の考え方は対立してしまう場面に飛び込むことになるのだから。

本当はそんな面倒なことはしたくない。したくないけどそこで考えを示しておかないと飲み込まれてしまうような感覚がある。彼らを否定したいのではなく、彼らの価値観を否定したいのでもなく、彼らの価値観を受け入れられない自分を否定したくないことが原動力になって自分の立ち位置をぼかす願望を破ってしまうのだと思う。でもそれは自分の立ち位置を明確にすることを通し、彼らの考えを否定することでもあって。

 

そして何より自分の内面を晒したくないというのが強いので、この行動自体がものすごいストレスなわけです。どっちに転んでもストレスまみれ。めんどくさ。

 

他人の価値観に合わせることは本当に辛い。街に居るのが辛いのもそのせいなのではないかと思う。全てが僕が受け入れることが難しい何かで回っている。全てが。それは空間を、時間さえも支配して、全てが僕に干渉してくるように感じるわけです。僕はその物事に関わることさえ、それを肯定することに繋がるという思考態度の人間だから更に辛い。

それが本能的に、ここに居るべきではないというストレスに置換されるのかな。

 

 

評価に安心する自分も居て、不安な自分も居て、評価が嫌いな自分も居て、その評価というもの自体に一喜一憂したくない自分も居て、すっごい面倒くさい。

 

投稿し終わって感じたことは自分が守られたという一瞬の安堵と、自分の内面を晒した後悔と、そして色んな不安(特に相容れないであろう考え方の人や、僕にオフェンスされたと感じてしまうかもしれない人に対する不安)。呵責。誰に対する呵責なのか。自分自身の内面での呵責なのに、それが更に他人に続いているようで、それにも呵責がのしかかり、円を描くように増幅される。何に対する呵責なのかすら既にわからないのに、そればかりが大きくなる。

どっか壊れてるんだろうなぁ。そう思って自分を正当化しようとすることに対する呵責もさらに…っていう無限ループ。ため息しか出ないね。

 

 

ソーシャルは面倒くさいものだけど、ソーシャルメディアですら面倒くさい。いや、規模的にというか、関わり方的にというか、更に面倒くさいかもしれない。

 

ブログ、ここだけは仮面舞踏会のように僕を守ってくれる匿名というシールドが存在するから良いのだけど。

FB、前はそう頼まれることがあったから義務感で投稿していたけど、それすらしなくなってしまって久しい。そんな僕が急にあんなことを書いたら他の人から見たらどうなのだろうか。

他の人が見たらとか関係ないけど、でも他の人は他の人から見るわけで、その人たちに見られる僕はその人たちにそう見られることが事実なわけです。

 

FBに投稿してから感じた色々な感情、それが最終的に変わっていった先はいつものあれだった。

「あー隠遁したい。隠遁したいなぁ。隠遁したい。隠遁、隠遁、隠遁…。いつか隠遁してやる。何故隠遁してはいけないのか。隠遁は権利である。隠遁、いいなぁ…。」

 

隠遁が終着点ではないと思う。ただそれは必要なものなのだろう。そこに対する憧れが必要なのか、そこが物理的に必要なのか、それはわからない。

それを知るためにも半年くらい隠遁してみたいな。お試し隠遁。でも何だか、帰ってこれなくなりそうで、それが事実か事実でないかはわからないけど、その漠然とした不安がまた僕を繋ぎとめるのだろう。僕もまた社会に繋がれている。