感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

汚い言葉を使う優しい人

汚い言葉を使う人には気を許せる人が多い。

勿論汚い言葉を罵倒する為に使う人もいるけどそれとは別種のもの。

 

多分この人たちは、自分の感覚にロイヤルである人、嘘をつけない人なのだと思う。ある意味不器用で、それは正直だからなのだろう。

言葉というのは選ぶのが難しい。汚い言葉が感覚的に出てきた場合、置き換える言葉を見つけたとしても自分自身に嘘をつくことになる場合が多い。そういうことができない純粋さを持っている人なのだと思う。

汚い言葉遣いの中にも内面への正直さを感じるからこそ、僕は心を許すことができる。

 

羨ましさも感じる。

僕の場合は自分の場合は相手を傷つけてしまう、嫌な気分にしてしまうという怖れがあって言葉が詰まってしまう。それは相手のことを思っていると見せかけていても突き詰めれば自己欺瞞でもあり、狐のような計算でもある。原動力が『傷つけたくない』の裏にある『傷つきたくない』だから。少なくとも僕自身にとっては。

そういう余計な計算のない正直な態度はとても羨ましい。

 

言葉というのは選ぶのが難しい。

イメージが先行して出てきてしまった場合もまた。そこに喩えようも無い感情が付随すると更に難しい。僕はこれが多い。

ちょうどいい言葉を見つけるのは僕の語彙力では至難の業。うまく喩えられてもよくわからない比喩になってしまう。

結局言葉を押し込め、蓋をすることになる。

そういう場面でも彼らは汚い言葉を使って自らの気持ちを表現することができる。

 

感性の言葉といわれる英語話者が取り敢えず汚い言葉をくっつけるのに似ているのだろうか。それは汚さの仮面をつけた繊細な感情表現でもある。大雑把な言葉というのは色んなものを含むものだ。

 

彼らのツンケンした態度も、繊細だからこそのものだというのが滲み出ている。そうやって身を守っているのだろうか。汚い言葉も防御のためなのだろうか。

彼らもまた主流に混じれない者たちだった。だからこその行動なのに、そのせいで更に誤解されてしまうのではないか。

人は表面ばかりで判断されてしまう。彼らからは優しさも寂しさも滲み出ているのに、それには誰も触れようとしない。

 


汚い言葉というけれど、そもそも何が汚いのだろうか。

『汚い言葉』それを以って人を判断する人たちは、他者の外見や職業でさえ『その人』を決め付けるのに利用するのではないだろうか。その言葉を汚いと捉えるのは、自からがその言葉をその認識の下に他者に適用しているからではないのだろうか。それが汚いという認識は、ただ単に手垢に塗れてしまっているからではないか。

 

本来的にはそれらの言葉は、子供の好きな「うんち」や「おしり」と大差がないのではないだろうか。だからこそ純粋さを感じるのかもしれない。

 

彼らの「ばか」という言葉には人を突き刺す威力がない。少なくとも僕にとっては。

それは彼らが自分自身の認識の下、自分自身に適用する過程があるからこそ、他者に対して適応した際もそこに攻撃性が見えないのではないか。それはその言葉に含ませた自嘲の念を相手に適応しているに過ぎないから。だから相手を見下したり非難する「ばか」とは違うものになる。

 

人を突き刺す「ばか」を言う人は自分自身に『ばか』を見ない。自嘲などないのだから。

 

 

彼らは何故はみ出し者達に紛れ、彼らに扮するのか。なぜ理解されることを拒むのか。

それはきっと、純粋で素直だからに他ならない。

そして多くに理解される価値など無いことに本能的に気づいていたのだろう。それは彼らの感性の強さから考えれば当然でもある。

僕が彼らに感じていたように、彼らもまた『なんとなく居心地がいい』それに身を任せるのだろう。

我々に本当の意味で彼らを理解できる素地がなければ、貴重な彼らははみ出し者になり続ける。社会はそれを損失と認めようとしないが、見抜かれ、避けられているのは社会のほうだ。

彼らもまた一種の妖精さんなのだろう。

 

 

元気にしてるかなぁ。