感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

自己肯定感 から 自己否定、オーバーシンキング

自己肯定感って言葉は雑多な感じがする。色んな似たような言葉がごちゃ混ぜになってるような感じ。僕の場合自己肯定感が高いとか低いとかって言われてもぱっと来ない。自己否定は凄くしっくり来ていて、(肯定され得る)存在が百なら否定も百で来る感じ。抱える相反っていうのかな。

行為に対する自己否定も存在に係る。っていうのは多分、存在と行為は僕の中で自然に結びついている。だから「何であんなことしちゃったんだろう?」じゃなくて「何で僕はこうなんだろう?」になる。その部分が僕にとっては盲点となっているから、気を付けないと傲慢になるだろうしそれに恐れを持っている。

 

注意を否定として捉える人って時々聞くけど、僕はそのタイプなんだと思う。行為を注意や批判する時どんな気持ちで批判するだろうか。多分、行動は努力すれば改められるという前提をもって、その人のためという気も時に込めて批判するのだろうけど、その部分の感覚が既に違うと思う。

僕の場合その努力して改めるという部分が既に苦手で、たとえ改めたとしても苦痛を伴ったりもする。何ていうんだろう。難しいな。

自らの存在と行動の関係性というのかな。勿論行動=自分ではないし、誤りがあれば分かるけど、でもその行動は自分の内にあって、こうするのが自分の中での自然というのかな。流儀とかそんなものではなく、こうなって然る的な。自分の中ではね。だからちょっと極端に言えば「そうですね。左利きでごめんなさい。」って感じに受け取っちゃう。「努力しても治らねーよ」という気持ちが既に入っていて、全力で存在肯定しつつその一方で全力で自己否定が来る。「やっぱりお前の存在が間違いじゃないか」って。

あ、左利きっていうのは単なる例だよ。僕はどっちでも使いやすい方使えるのが一番だと思う。

 

これって自分にとっては本当に盲点なので、他人に指摘されて分かるものではないと思う。そんな人が非難された挙句「気遣って言ってるんだよ」なんて言われたらふざけてるとしか思えない。だってそれってダブル否定。本当に気遣っているとしてもそれが受け手によっては全否定になり得るのだから人間関係って地獄だと思う。

 

だから僕の場合自分が否定された時ワンクッション置かないと気遣って言ってくれたって気づかない。ほら、もうナチュラルに自分が否定された時って書いてる。実際主観的に見れば否定されてるから、相手の気遣いを見ようとするか(そもそも自分から見れば)無い物と断じるか的な部分。でもその微かにしか見えない気遣いをしっかり見るためには自らの盲点に目を凝らさなければならない。これって本当に難しいし疲れるし辛い。正直そこまでして理解し合うのが難しい相手を見つめる必要があるとは言い切れない。でもそこに価値を見るなら、また違う見方で色々なものを見れると思う。自分も含めて。

批判的な人にとっては盲点というよりも分からない部分だから、なぜ理解されないのだろうなんて思わない方がいい。自分が理解の努力をするしかない。

 

この盲点は僕にとって積み重なった自らの怖れにも繋がっている。そしてその怖れは行動選択にも繋がる。僕は人を注意することが苦手。それは自分を重ねるから。『注意が相手の否定になる』という怖れ。同時にその盲点から『行為もその存在から生まれるものだし、じゃあ注意する必要があるのか』という見方(そういうものなんだしいいじゃん?的な)も併せ持ってる。ダブルで注意するのが苦手。

無関心なわけじゃないんだけどな…そういう個人的なこと言う立場だと僕は思わないから。関係にもよるっていうか…

 

行為を注意するのは否定ではないっていうのは聞くし頭ではわかるけど、自分の中ではその限りではないというのも分かるから、単なる怖れとは違う気もする。言い方や正当性どうこうではなく傷つき得る相手は実際に存在するんだよ?それだけ傷つくことが怖いってことだね。そうだよ!えーん。最近はぴえんっていうんだっけ。

まぁ注意のハードルが高いってことだね。

 

そうそう、自己否定は百で来るって書いたけど、最近は割と薄まったし頻度も減った。百っていうのは、存在は0か百の問題だからっていう意味だろう。じゃあ1でもいいかな。0か1。でもそれだとなんか違うんだよな。存在は0か1なのにその否定は百ってなんか面白いな。へんなの。でも感覚と思考の違いならそんなに変でもないのかも。

 

自己肯定感に関して書こうと思ったら前置きの自己否定で長くなってしまった。

僕が書きたかったのは、自己肯定感が低いという人に対してどうサポートできるだろう?ってこと。自己肯定感が高い・低いが分からない僕は、知らず知らずのうちに相手の柔らかい所を踏み躙ってしまわないだろうかって。

僕にとっては相手は紛れもなく存在していて疑いの余地はないのだし、あらゆる方策をもって百として肯定され続けて当然の存在になる。1であり百。

 

それって自己肯定感が低いと悩んでいる人に対してはどうなんだろう。端からその悩みは見えないという態度で、例えば「そんなこと悩むまでもなく君は存在してるよ」とか「人が存在してはいけない理由などないよ」とか言ってしまったりそんな態度が透けて見えたりしたら、傷つけてしまったりするのかもって。そう思うと急に怖くなった。その辛さには寄り添えても手前にある部分には寄り添うことができない。

 

何ていうんだろうな。承認を求める人が居て、その人に向かってそんな承認なんて必要ないって態度に出ちゃったらどうしようとか。

 

 

ここまで昨日の夜書いたのだけど、この先何書こうと思ってたんだか忘れちゃった。

まぁ、考え過ぎても仕方ないんじゃないですかね。日を跨いでからのちゃぶ台返し。最近下書きがこんな感じで溜まっていくから晒して供養。

オーバーシンキングって思考のループの中にいる時はオーバーシンキングな気がしないんだよね。不思議。

 

ところで唐突に話は変わるんだけど、僕、新居昭乃さんの歌大好きなの。続き何書いていいか分かんなくなったから好きな歌貼り逃げする。


Ame no Hi niwa

 


Ekleipsis

 


Ningen no Kodomo

 


Sakasama no Niji

 

肌触りっていうのかな。空気?色?感触?そういうのがとても好き。忘れてきたものを呼び起こしてくれる感じ。聞き心地がいいっていうより居心地がいい。

 

こういう歌聴いてると考えてたことがどうでもよくなってくるね。