感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

性的趣向

性的な話題をタブー視したくないと以前書いたので、有言実行しようと思う。

 

性的趣向って言葉にはよくないイメージがこびり付きがちだけど、ヒトという動物を探求するにも、それぞれの人間という存在を覗くにも、その中にはこれ以上ないくらい色んなヒントが詰まっていると思う。

根源的な欲求、その人個人の気質による捉え方や考え方、経験、知識、抑圧されたものや憧れ、文化的土壌、集団の中で共有している価値観、バイアス、数え切れないものが性衝動の元に集う。それはひとつひとつの性的趣向がカクテルのようで、同じ名前を持った趣向も作り手や飲み手によってまったく違う世界を構築している。

お酒飲まない僕が言うと説得力ないなぁ

 

性的趣向がここまで多様化しているのは、性行動がヒトという動物にとって繁殖以上の意味を持っているからだと思う。たぶんそういう研究はいくらでもある。調べたことないけど。

ヒトに排卵等の性サイクルがあるのに繁殖期がなくいつでも(妊娠中や授乳中でも)性交するのは、そしてそのサイクルを隠そうとするのは、女と男が性行為に別の目的を持っていて、根本的に騙しあいをする存在だからだと『精子戦争』の著者が同書の中で書いていたと思う。それは生物的な大前提なのに、不倫問題に躍起になる人たちはそこを無視する。そういうものだと受け入れないで議論をするから不毛で人ばかりが傷つくのではないかと思う。

ただそれも前提のひとつに過ぎず、本当にさまざまなものが僕たちを衝き動かすし、思いとどまらせる。

 

群れの維持のためにレクリエーションとしてメス同士でも性行動を利用するボノボが我々の近縁にいるように、性行動の持つ意味が繁殖だけでない場合はある。動物種によっては肛門性交をする個体も出るようだ。親の糞を食べり、接吻を通してほかの固体の菌を取り入れることは当たり前にする。生物一個体そのものが生態系でもあるから、その生態系が存続するために、それはとても自然なこと。僕らを動かす欲求というものは何に根ざして何を目的にしているのか、それを自分が持つ欲求や嫌悪感と重ね合わせて考えるのがすごく楽しい。

 

カニクイザルは人間が近づくと目の前で性交を始める。それが何によるものかは彼らに聞かなきゃ、多分聞いてもわからない。でも彼らはそれを楽しんでいる。スリルをスパイスにしているのだろうか。それとも見せつける行為でヒトという自分より物理的に強い種に対し、自分の地位を誇示しようとしているのか。それはわからない。でもなんであれ、人間の持つ趣向とリンクする部分はあるだろう。

 

一般的な性的趣向をざっと考えてみる。

 

屋外で開放的にしたいっていうのはとてもよくわかる。そもそもなぜ室内が前提なのか。その一言に尽きる。

 

見せつけたいというのは服を着るようになった反動かもしれない。見られたいという羞恥は少し違うけど、それは道徳感があるからこそ味わえるものなのだろう。

 

行為を見たい・見られたい、この辺は家を作って住むようになる前から、きっとその後も見て見られてを楽しんでたんだろうな。

 

寝取りたいというのは力を誇示したいという健全な欲求の現れだと思う。ハーレムもその延長だろう。

 

パートナーを寝取られたいというのも支配欲の反動で何かあるんだと思う。その捻じ曲がり加減には好感が持てる。僕はむしろオープンに色んな世界を楽しんで欲しいと思ってしまう方なので、感覚はあんまりわからない。あ、でもパートナーという概念自体が最近のものかもしれない。群れというか部族の中で想いを寄せる女の子がいるけど叶わず上位の男に…みたいなのがあったんだろうか。初夜権的なものは割と昔からあったのだろう。

 

グループセックスやスワッピングは、むしろヒトはそれをずっとやってたんだと個人的に思ってる。根拠は無い。ただそう思う。でもスワッピングはパートナーの概念がないと成り立たないかな。いや、所有、支配下という認識であれば貸すという名目で繋がるかな。

 

異人種に興奮する人は血を混ぜるという観点からは正常だし、多分それだけでなく植えつけられてきた美のイメージも影響してるんだと思う。

 

肛門性交は宗教教義から逃れるためという説明がされることがあるけど、それだけではないと思う。わかんないけど。

 

部分に欲情するのはその人の世界の捉え方の特徴が出てるのだと思う。僕はあまりよくわからない。多分道端でミンチになった犬を見て悲しめる人。わかんないけど。セックスアピールという意味では、女性の胸やお尻、男性の胸板なんかは特別な地位にある。象徴なのだろう。

 

その逆にシチュエーションに欲情するのはよくわかる。多分どちらかが優位になるんだと思う。

 

AV のジャンルも多様。昔は人並みに観たけど、30歳が近くなったころから興味が薄れてぜんぜん観なくなってしまった。頑張って観てもすぐ飽きてしまう。作り物感をものすごく感じるし、刺激ばかりな感じがする。刺激でなく作品感を求めるなら映画でいいんだよね。闇もある世界なので僕はインタビューが楽しそうな雰囲気の人のビデオじゃないとダメだった。女優さんは感性が優れている人が多い気がする。それもまた社会の闇の一面なのだろうな。

 

レトロ作品は好き。なんだかその人の、もう戻ってこない儚い青春の美しさを見てるんだなって感じる。花は散るもので、太陽は沈むもの。ほとばしる最盛期の生命力、その過ぎ去った一瞬を垣間見ている感じがする。

 

赤ちゃんプレイや幼児プレイは抑圧があったんだろうなって思うし、認められる安心感が欲しいのかな。なんとなくわかる。

 

二次元の世界も奥が深いのだろう。色んなものがそうされているのだろうけど、アーティスティックな表現の原動力としても性欲が機能するのが面白い。裸婦画のような美しさ、生、エロスを追及するだけではなく、きっと色んなものがごちゃごちゃになってる世界。分解したい。

 

SMの世界も奥が深そう。スイッチの人がそれなりにいるけど、その両方を楽しむ姿勢は個人的に好感が持てる。「支配される者は支配しようとする」とかなんとかツァラトゥストラが言ってたけど、本当に奥が深そう。

 

排泄物系は汚いという価値観に対する何かがあるのだろう。この場合菌の交換うんぬんがあるようには感じない。

 

近親系はなんかこう、触れてはいけない何かを僕は感じる。家庭、家族というものの在り方が影響してるんだろうか。動物も状況によってはすると僕は理解してる。同じケージに閉じ込めたりすれば。ただその状況にならないからあまり起こらないだけで。例外はあるだろうけど。

 

痴漢はよくわからない。あまりに一方的なのはちょっと個人的に理解するのが難しい。ただまぁ動物によってはレイプが通常の性交だったりするわけで、きっと何かあるんだと思う。個人的に人間はそのラインは超えて欲しい。でも無理矢理されるのが好きな人とか、そういう願望を持つ人がいることも理解しなくてはならないと思う。そういう人同士で集まるシステムでもあれば傷つく人は減るのかなぁと思ったけど、無理矢理したい人はそれでは満たされないんだろうな。理解できないというか、理解したくない領域でもある。

 

一神教系は抑圧と背徳なんだろうな。

 

カーマストラや瞑想のように、快楽と精神世界を結び付けるもの、これは快楽をコントロールした上でより深める修業的なものに見える。より人間的なのだろうか。現代においては心の平穏を探すのと大差ないのかもしれない。

 

死体はなんだろう。でも愛は感じる。

 

未成年が好きな人でも第二次性徴後に反応する人は生物的にはいたって正常だと僕は思う。ただ第二次性徴前に反応するのは、何かの反動なんだろうな。人が傷つくという基準はどちらの場合も同じなので、どっちも人間としては抑えて欲しい。

 

未成年男子が色んな地域である役割を担うことがあるのは、宗教云々以前の何かがあるんだろうなぁと感じる。でもやっぱりトラウマにしかならないだろうから、現代の人間としては抑えて欲しい。でも民族によっては男女の他にその役割が自他共に認められるアイデンティティになったりする。難しいなぁ。

 

動物は、うーん。動物も異種を犯すのが居るしね。人間世界では地域によっては牛やヤギ、鶏はメジャーな被害者らしい。地域によってはということは、単なるエラーというより風土や何かに根ざすものがあるのかな。犬の場合双方合意の上なのだろうか。わからない。

 

ケモナーっていう概念が日本にはある。動物の擬人化でいろいろバラエティがあって、ナーだからそれを愛好する人達のことなのかな。以前画像を見てみて気になったのだけど、殆どの場合おっぱいは胸にあった。腹に複乳ではダメなのだろうか。中には複乳が胸にあるのもあった。鳥をモチーフにしてるのにおっぱいが胸にあったりする。そこまで動物の外見に拘るのにそこは譲れないんだなぁというところが面白かった。

 

やおいというのも日本にある。以前タイの友達に力説された。男の子同士がいちゃいちゃしてるのが僕のイメージ。サウスパークでもネタになってる。男は美少女が仲良くしてるのが好きだし、単純に性の対象というよりは、自分の中の異性に重ねる願望みたいなのがあるのかなぁと思う。わかんないけど。男女がスパッと生物学的視点だけで分けられてるからそういうのが生まれるのかな。性のアイデンティティの話になるとややこしくなるけど、皆どっちも持ってるんだと思う。持っているというより、境界のない部分まで勝手に分けて定義づけたから。錯覚が具現化したというか…この話は終わらなくなるからおしまい。

 

全てがこんなに単純ではないし、人によっても違ってくる。だから僕は面白いと思う。

 

 

人間の持つ性的な欲求に繁殖以上のものがあるとして、近代の一神教から派生した道徳や倫理はそれを認めようとしなかった。日本ではそれは変わりつつ(元に戻りつつ)あると感じるけど、社会はまだまだその影響を引きずっているし、その価値観の中で人が育つ。

人々は性的趣向の多様性を汚いものを見るような目で見ているふりをしているけど、自分の内側に興味や欲求があるからこそ他人の趣向を否定することで自らのそれを抑えようとするんだと思う。偏見を正当化することで常識の中に身を置く自分を正当化しようとしてるように見えてしまう。

でもそれは、どの問題においても目を逸らすだけで、そこで生まれたズレた理解や不毛な対立は、さらに多くの人を傷つけるばかりでなく、抑圧を生み、反動を生み、悲しい連鎖を生むのではないかなぁと思ってしまう。

以前書いたけれど、僕が一般的に振りかざされる道徳や倫理が嫌いなのは、その排他的な幻想である常識というものを通して人を傷つけるし、多様で神秘的な宝物を僕から隠そうとしているように感じるから。もっと素直に楽しんで、その上での問題を考えればいいのになって思う。

 

 

平日からいったい何を考えているんだろうか。

こんなのアップしたら引かれるんじゃないかとか、そういうことを考えるとワクワクしてしまう。

でももし不快な思いをさせてしまった人がいたらごめんね。