感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

自罰中毒 原罪の救い 重大な欠陥

自罰的な自分をどう捉えればいいのだろうか。自罰、自虐、卑屈。特に自罰は趣味が悪いという人もいる。僕もそう思う。

 

自罰。僕が何かと背負おうとするのにどこかリンクしている。

 

背負うことは僕が人との関係を捨てられないから背負うのだと思う。背負わされるのは大嫌いだけど、誰も背負わないものは僕が背負わなければならないという思考が働く。それは僕が自分の時間軸の中に永遠に囚われ続けるからであって、自分の過去を正当化するためであって、僕と接点があって今は居ない彼らの喪失を割り切れないからであって。弱いからね。

そうすることでその役割にある自分の存在を認めていた部分があるのだろう。そして自分の過ちも背負うことによって正当化しようとしている。

 

何度も考えたけど、多分僕にはこの生き方しかできない。

自分を認められるようになれば変わるのだろうけど、それは僕にとって一番難しいことでもある。全てが屈折して、本来は繋がらない部分が自分の中では繋がっている。そう繋がるしかないから。

自分を認めないことで自分を認めようとしている。バグってるのは知ってるけど、システムHDD換えないと直んないんだよね。それ取り替えたらそれは自分なのかという話になるでしょ。頭でっかちだから割り切れない。こうやってバグった自分を正当化するしかない。

 

優しいと言われるのに拒絶反応が出るのは、僕は自分自身が優しいからそうしているのではなく、自分の存在を正当化するためにやっていたり、相手が傷つくことで自分が傷つくのが怖いからやっていたり、結局全て自分のためだから。

結果的にそうであっても、僕の中ではそのステップがあるから繋がらない。

 

こんな僕が生き残ってしまったことに罪悪感がある。生きることに意味なんて無いのはわかってるけど、意味を持たせないと自分が生きていることを正当化できない。できてないけど。せめて僕にしか救えない人を一人救えれば、きっと正当化できるのだろう。ほらね、すべては自分を正当化する為。傲慢なんだよ。

 

 

自罰的な人と接していると、彼らの多面鏡の中の世界とその苦しみはマイナスばかりではなく、むしろ外から見ると温かさを感じたりする。優しいんだなって思うし、そう在りたいなとも思う。とても共感できる。彼らは苦しみの分だけ強さを持ってる。だから自分を責めないで欲しい。

 

でも、それを自分と重ねるのは話が別。ややこしいけど、『〜でなければならない回路』が僕の中にはある。だって僕は卑しい自分しか認めてはならないのだから。気持ち悪いなぁと思うけど、半分諦めてる。

 

僕は宗教の中に入るのは好きではないのだけど、色々大変だった時期に同級生のプロテスタント教会に遊びに行っていたことがある。断れない性格だから、毎週ではないけどイベントには顔を出したりしてた。

話を聞いていても、さらっと聖書を読んでみても、そこまでピンとくるものは無かった。ただ、彼らのその卑屈さにはとても好感が持てた。多分僕は、そこに心を許したら、そして赦されたら、もう出てこられなくなることを知っているから拒絶するんだと思う。酒も同じ。

 

『原罪』というのはとても凄い発明だと思う。理不尽な理屈だけど、それを認めることで等しく神から赦される。自分の存在を自他双方から間接的に承認してもらうことができる。そこに縋るのは悪いことだとは思わない。縋れるものがあるなら縋ればいい。

ただ、その承認に盲目になった人とは僕は仲良くなれない。矛盾を捨てた人とは。

 

 

自罰。僕の中では色んなものが合わさってる。

怒り。言葉が重くて口から出ないから、思ったことを伝えることができない。相手が傷つくのも嫌だし、自分も傷つくのが嫌だから。不正をする人や人を蹂躙する人に対して向かっていた僕の怒りは矛先を見失う。槍を構えてしまったからには突かないという選択は難しい。その中で悪を見出すなら自分の弱さだろう。だから僕は自分を突き刺すしかない。多分自分の中の別の自分を突き刺してる。

辛いけど気持ちいいんだろうな。合理的でしょ?

SMのスイッチの人の気持ちがなんとなくわかる。どっちも気持ちいいんだもん。自己の内面でセルフSMやってるんだよね。辛いけどやめられない。

 

悲しみ。他人の悲しみに身を浸し、その痛みを感じることで自分を赦そうとしている。他人の悲しみを食べて癒されようとして。結局自分を哀れみたいだけなんじゃないだろうか。

 

憎しみ。僕が他人に憎しみを感じるとき、その憎しみを感じる相手は僕であることが多い。それは全て僕自身の内側に持っているから。じゃあ誰を憎めばいいの?鏡に映ってるんだよなぁ。

ミラーハウスに住んでるんだよね。出口を教えて欲しい。

僕がヘイトを凄く嫌いなのは彼らが鏡を見ないからだと思ってた。でも多分、彼らの鏡には自分だけ映ってないんだと思う。ある意味それって凄くうらやましい。だけど僕自身ヘイトに対するヘイトを持つということは、鏡の中の自分の持つ鏡の中には自分を見てはいないのかもしれない。書いてて自分でも意味がわからない。

 

この頭が嫌。4ゲージのショットガンで頭をぶち抜いて欲しい。でも本心でそう思ってないからここに書いてるのかもしれない。どっちだかわからない。両方なのかな。

でも今はまだマシ。コントロールを失ってたときは頭の中がぐるぐる回りすぎて何を考えているのかもわからなくなって本当に辛かった。薬で思考をシャットダウンする人の気持ちはわかるつもり。感情をシャットダウンする方もわかる。2つとも繋がってる。

でも気をつけて。それで帰って来なくなったら本当に悲しいから。

 

 

人は何かを罰さなければ生きれないのかもしれない。自罰か他罰かどちらか選べと言われれば、やっぱり自罰を選ぶと思う。

だって僕の世界では合理的だし、気持ちいいし、僕はそうすることでしか生きられないから。僕の世界にイエスが居たとしたら、磔にされてさぞ喜んでいると思う。他者の生贄になれれば、人柱になれれば、それ以上の救いはないからね。

 

赦されたい。何に赦されたいのかはわからない。多分それも自分自身なんだと思う。

結局は生まれてきてしまってごめんなさいの世界。拒絶されたわけでもないのに自分で拒絶してる。皆は祝福してくれているのに、それを素直に受け取れない自分を更に突き刺す。それが心から気持ちいいと言えたらどんなに楽か。本当は苦しいだけだよ。それが言えたらどんなに楽か。

 

 

さて、こんな自分をどう認めろというのか。認めないことで認めようとしている。それで認めることができないのは明白なのに変えることができない。

この星の理屈では僕は救われないのかもしれない。いや、僕は救われてはいけないのかもしれない。そもそも、なぜ救われようとしているのか。救われるほどの価値を認められてはならないのに。

 

めんどくさ。

 

 

街に居ると全て自己完結なんだよ。僕には重大な欠陥があって、その重大な欠陥を直すプログラムに対しても重大な欠陥を吐く人間だから、自己完結の街では頭がおかしくなる。おかしくなるんじゃなくて元からおかしい。適応なんてできないよ。

せめて自然の中に身を置いていれば、全てが繋がっているから正当化するまでもなく自分は単なるその中の存在になれる。

 

早く動物に戻りたい。