感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

災害と支援 同情、善意とヘイト

支援支援ってなんでそんなに躍起になるのだろう。

善意を否定するわけじゃないけど、そこまでのものなのだろうか。

 

ライフラインが滞って不自由は不自由なんだろうけど、それは自由の形が現代日本の形になって、しかもそれが当たり前という認識が共有されているからそれが不自由だと感じるだけなんじゃないだろうか。

なんでその生活が常に前提にあるのだろう。この程度の災害(ごめんね)で喚いて、主張して、言い争って。人類の未来の暗さしか見えない。

日本のモラルは確かに特殊だと思う。でもそれが良い面ばかりだとは思わない。そしてそれそのものもいずれ瓦解するものだろう。生きているうちにそれを見ることになると思う。だから僕はそこに縋るつもりはない。

 

便利が自由とは限らないし、不便が不自由とも限らない。ただ、それが当たり前になっているから被害を被っていない人は善意として支援をしたがる。

前提となっている感情が『かわいそう』。同情。でもそれって、僕はすごく浅い『かわいそう』に感じてしまう。人を見て理解をしようとするプロセスを省いているからだろうか。相手が存在しない一方的な同情。

反射的。ただ刺激に反応している。内省がない。

 

支援するのが当たり前の空気。

SNSで支援できないことを申し訳なさそうに説明し、それでも気持ちはそこにあると言う人。何のアピールなの?なんなのかはわかるけど。でもそのアピールが必要なことがおかしいと感じないのだろうか。

 

一方的な同情。その同情が人を助けることがあるかもしれないけど、それと同種のものが人を苦しめる。傷つける。排斥する。

災害の場合は関係ない?本当にそうだろうか。根底に同じものがあるこの形の同情というものを肯定するのは、別の形の同じものを肯定することになる。その連鎖の中に僕は足を踏み入れたくない。その勇気はない。

 

ヒトにとって、その善意は本来は必要だったのだろう。でも環境が変わり過ぎた。人が増え、社会は大きくなり、自分の所属する部族も大きくなり、それなのに繋がりが曖昧になった。すべてのデザインは崩れ、逸脱した。

であるならば、その中で今までの本能にただ従うことの危うさを認識して変わらなくてはならないのではないだろうか。変化が急速過ぎたんじゃないだろうか。適応するには時間が足りない。ヒトが人間としてできるのは、認識を改めることが出来るという希望に縋ることくらいしかないのではないだろうか。

 

善という考え方も、結局はその、多くの人が従う本能の弊害で歪んでいるだけなのかもしれない。

本能が悪いわけでも、理性が悪いわけでも、道徳や倫理が悪いわけでもないのかもしれない。彼らの中では入れ替わってしまうから。すべての組み合わせの中でエラーが連鎖している。

 

同情、善意、感謝、奉仕、助け合い。現代人はそれに飢えている。見えない群れの中での孤独を満たしたいのだろうか。でも僕はそれらをヒューマニティだとは思わない。今の形である以上は。すべてが同質性の上にしか成り立たない現状では。

 

それで救われるのが自分であることを認識してるなら、傷はもう少し浅くなると思う。それが足りないから暴走列車になってしまう。

目的を果たすためなら、レールの上に居る人を撥ね殺していく。暴走に気づいた乗員は投げ捨てられる。誰にも止められない。

撥ねられた人を見て、同じ顔をした乗員たちが悲しむ。誰がやったんだと憎む。でも鏡は見ない。自分自身がアクセルを踏んでいることにも気づかない。

 

純粋で優しいんだろうけど、その優しさは痛い。チクチクトゲトゲしていて黒い。

僕はその痛みを感じる側だから、ささやかな抵抗をする。

 

その他人を認めない優しさで自分が満たせるの?

その善意は自分自身も蝕み、苦しめていくのではないの?

 

でも誰も聞いてくれない。声にならないから。誰も望んでいないから。

結局僕はその黒いヘイトを吸い、黙っている自分を責めて生きるしかない。

 

 

自然災害では死にたくないと言う人がいる。じゃあどうやって死にたいの?と聞きたくなるくらい、僕にとってはトップクラスの理想の死に方なのだけど。その辺の価値観の違いもあるんだろうな。

でも人がいっぱいいるのは嫌だから、大災害は嫌。死後の世界どうこうではなく、死ぬ時くらい一人でひっそりと死んでいきたい。