感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

生命誕生の可能性 から

天の川銀河内だけでもどれだけの生命がいるか、いたか、これから誕生するか。そして知的生命体はどれだけいるか、いたか、これから誕生するか。

そう聞かれたらどうだろう?

 

天の川銀河の中にある2500億~4000億個の恒星系の中に、ハビタブルゾーンはどれだけ存在するだろうか。無数に存在するし、過去にそうであった場所も無数に存在するし、これからそうなる場所も無数に存在する。そういった太陽系外惑星も観測され、どんどん数を増していっている。

 

人間としてのハビタブルゾーンではなく、生命の誕生に必要な要素、熱・液体・ある程度の安定が揃っている環境はどれだけあるだろう?

この条件であれば太陽系内の複数の月でもその環境の存在が示唆されている。それだけ豊富に存在する環境であるかもしれないということだ。

 

生命が存在したところで、始点以外接点のない、すれ違うこともない生命を見つけることにどれだけの意味があるか。僕は大きな意味があると思う。その地球外生命の存在の確認そのものに大した意味が無くても、地球外生命が人間によって確認できる距離で存在するという部分が意味を持つようになると思う。

それは僕たちの意識内にある生命誕生のハードルを下げるものであり、自らの樹形と異なりながらも似ているものが、この天の川に、隣のアンドロメダに、そして兆を超す銀河たちに散らばっているという確証をもたらすことで、僕たちの生命観そのものに変革を与えるものだと思う。

 

 

僕の今持っているイメージでは、生命というのは、花火のようにはじけては消えていく儚いものだ。それぞれの花火に色があり、形があり、大きさがあり、輝きがあり、はじけ方がある。それが宇宙的な範囲と時間的深度の中で繰り返し、上がってははじけて消えていく。それが恒星の誕生と死と連動しながら、同じように繰り返されていく。

 

今僕らがこの系統として、この花火として散っているところだとして、別の花火は無数に上がる。今この瞬間に同じく散っている花火があるかもしれない。僕らとは何の接点もない。でもそれは他人のそら似だろうか?

 

人がその存在を意識したとき、人は奇跡の呪縛から解放されるのではないだろうか。

 

例えば、生命の誕生が奇跡的であるという仮定も、僕は人が無意識に持つ奇跡への願望が先走ってそうさせているのだと思っている。自らの特別さを保ちたいという願望

 

一神教の誕生以来、自然を超えて存在し続けてきた人間の根底にある意識だ。自然への畏敬を忘れ、その中の存在であることさえ忘れてしまった意識。

 

宇宙において、この銀河において、生命の誕生が当たり前の現象であるなら、進化が当たり前の過程であるなら、その繁栄と滅亡が当たり前のことであるならどうだろう?

 

生命の誕生が人間にとって謎であることが、その誕生自体が奇跡的なものであることを意味しない。

自然という実験室は人の実験室よりも広大なだけでなく、時間的な深みがある。人の様々な観念にも支配されない、純粋な過程の場だ。

それが無数に存在し、単なる過程として生命が、時に知的生命が、時にそれとはさらに異なったものが誕生しているとしたらどうだろう。その可能性の場が日々発見され、人間の観測能力の発展と共に自らの出現の、存在の特異性、神秘性が薄れようとしている。

 

今僕たちはその流れの中に居るのだと思う。

その流れの先で、例えば生命の誕生が、人の存在が特別さを薄めた時、人の意識はどう変わるだろうか?

新たな奇跡を作りそこに収まるのだろうか。遠い話だと耳を手で塞ぐのだろうか。探求心に火をつけるのだろうか。それらを取り込み新しい解釈を試みるのだろうか。再び星を読み解くことを始めるのだろうか。大宇宙や神や魂や輪廻転生や天国地獄はどう解釈を変えるのだろう?(例えば惑星もしくは月ごとに天国地獄が用意されていて神が全てを統括する?でも混ざっていた方が妄想のしがいがある)

 

それはそうとして、その脇で、人が人であるという傲慢な意識はどこまで薄まるだろう?自然という秩序の中の存在に帰ることができるだろうか?

 

これらは神や神々が存在しないということを意味しないし、人が特別な存在ではないことも意味しない。ただ一昔前の考え方の基盤に立ち返るだけだ。でも人は一度手にしたものを手放すことを恐れてしまう。

 

 

居酒屋談義みたい。居酒屋談義ってあんまり経験したことないけど。イメージでしか語れないのは許して!