感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

天気予報、自然と人 科学の発展と利便性の向上の負の側面

日本は台風だったらしい。

ふと思ったのだけど、気象を予め予報で知ることが出来るのは本当に良いことなのだろうか。

物事には良い面も悪い面もあるし、見る対象によっても視野によっても視点によっても角度によっても変わるのはわかるけど。

 

FBで知人が出社したことを書いていて、「会社には出社は自由に決めてもいいと言われている」というような注意書きを加えていた。その人の感覚では是非が分かれているから、予防線を張ったのかな。

出社するのは人の勝手だからどうでもいいけど、文句を言いながら出社する自分をアピールしている人を見ると、どこか共依存と似ているなぁと感じることがある。

 

気象どころか運行情報や道路状況がわかるということは、日本のような社会では人がよりきっちりと管理されるようになる。賃金労働というシステム、曖昧な上下関係、労働環境、労働者意識、色んなものが関係するのだろうけど、日本の場合は利便性が上がるにつれて、より縄が締まっていくイメージが僕にはある。

どんどん息苦しくならないかなって、心配になる。

 

 

建物が頑丈になったから中にいれば安全にお仕事出来る。それはそうなのだけど、災害を含め、非日常が減って日常ばかりになるのはどうなのだろうか。

 

 

気象予報の話に戻そう。

機械によって人の能力が失われていくというけれど、気象についても同じことが言えると思う。

雲を読む意味がなくなり、風の質感を感じる意味がなくなり、空気の匂いを感じる意味がなくなり、嵐を恐れる必要がなくなり、雨に濡れることも少なくなり、人は天候を掌握したつもりになった。

それって本当はとても大きな変化なのではないだろうか。

文明と自然の関係性においても、人ひとりひとりの感覚的な問題においても。

何かこう、豊かなものを失っていくように感じる。世界が色褪せていくような、平坦になっていくような、そういうものを感じる。

 

数十万年、それ以上の間使っていた感覚を、人はそう簡単に捨てられるのだろうか。もし捨てられないとしたら、それを押し込めることに弊害はないのだろうか。多分、僕はあると感じているからこれを書いているのだけど。

 

科学の発展、利便性の向上、僕たちはプラスの面ばかりに惑わされてはいないだろうか。勿論、それらは加速する文明にとっては正義。特に物質的価値観が強い社会は積極的に取り入れ、甘い汁を人々に振り撒くだろう。

でもそれらを小さな社会として見た場合、個人として見た場合、ヒトとして見た場合、本当にプラスなのだろうか。その甘い汁は本当に甘いのだろうか。それを吸うことで得られるのは本当に幸せばかりなのだろうか。

 

 

釣りをする身として、僕は潮汐や月齢、風、波、潮流、以前はそういった情報に頼っていた。

釣果を目的とするのなら、そういった情報に頼るのは悪いことではないと思う。

でも今は釣果とか正直あんまり気にしないので、そういう情報はかえって邪魔になる。その情報に乗ることで、魚を釣ることばかりに気がいってしまう気がする。

 

 

桜の開花予報。スケジュールに余裕のない人にとってはとても便利。

でもそれを予め知ってしまうことは、僕にとっては春の到来を肌で感じた時の悦びを減らしてしまうことでもある。順々に色んな春の予感を感じ、遂に桜が花開き、そして散っていく中に身を置くことは、日本人にとってはとても大切なことだったのではないだろうか。

スケジュール合わせて季節のイベントとしてお花見することが大切とされるから予報が出るのだろうけど、それで失われるものもある。

 

感性や感覚だけではない。今までの人たちが培ってきた経験や知識による伝承や旧暦、伝統文化のようなものも、必要性が薄れていく。中身を失い、形骸化していく。

一神教がやってきたように、科学がそれらを殺していく。それは人々と科学の在り方がそうであるから。

 

僕の住んでいるような村では、絶対であるはずの一神教も、普及していく科学でさえ、地元の自然に根差す神々を殺すに至らない。

田舎へ行けば行くほど、イスラム教もキリスト教も。それは一神教の救いだけでは自然に根差す概念は覆せないからだと感じている。だから少し不自然であっても宗教が融合していく。それは日本の仏教と神々の関係を思わせる、どこか不思議なものだ。

イスラム教は東へ行くほど緩くなるとは言うけれど、それは単なる距離や民族の問題ではないような気がしている。

信仰心が低いとかでは決してなく、自然の力に一神教が勝てない。だからここでは、街の方が一神教への信仰が強いのだと僕は感じている。教育で下手に訓練されていない人々にとっては経験こそが唯一の判断基準となるという点も影響しているのだろうけど。

 

そう、経験。

中途半端な気象予報より精度がいい。だから人は天気予報を気にしない。でもそれは当たり前のこと。

予測が外れることがあるのも当たり前のこと。被害を受けることがあるのも当たり前のこと。雨で予定がつぶれることも当たり前のこと。天気を言い訳に人が仕事をサボるのも当たり前のこと。渡り鳥の渡来に気が付くのも、果樹の開花に喜びを感じるのも、伝統が伝えられるのも、当たり前のこと。

 

無味乾燥なものに当たり前のことが殺されていく。そんな気がする。