感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

治水が前提になる事 災害 国土強靭化

治水が前提になっているのはやはりおかしいのではないかと思う。

日本という国が山だらけで平野部が少なく、急流が多いのも分かるし、その条件の下ではそれが多くの他国に比べて重要度を増すというのは分かる。

 

ただやっぱり川というものを環境システムとして捉えれば(そんな捉え方をしなくても)、氾濫というものは当たり前のこと。寧ろその氾濫を前提として自然環境は成り立ってきたのだし、文明でさえその当たり前に起きる現象を活用して農業を発展させてきた。

勿論これは川遊びをして育った子供時代に、護岸工事の弊害を見て育った僕だから恨みを感じる部分なのかもしれないけど、でもやっぱり現在の認識は僕はいきすぎだと感じる。

何でこう、何もかもコントロールしようとするのだろう。自然を超えて在ろうとするのだろう。

 

別に僕は全ての治水事業に反対というわけでもなく、ただその「自然を支配下に置いて然るべきだ」という、前提になっている認識に疑問があるだけなのです。前も書いたっけ。自然への畏敬が抜け、神仏や科学、更には技術に対する信仰が一神教に近くなっているからなのだろうかって。 

 

氾濫氾濫言って氾濫を悪く言う、またそれを攻撃のだしに使うまでの精神性。僕はそれが怖い。

災害は起きるものという認識があまりに欠落しているのに、いざとなると非難する相手を探そうとする。だからこそ更に軟弱、脆弱になっていく。

 

警報を出したら出したで何事もなければ文句を言う。

警報。本当に必要なのだろうか。既に注意喚起という意味も変わってきている。これを続ければ警報の間に合わない突発的な事態で誰も避難しなくなるのではないか。人を災害から守るためにやっていることで人の災害に対する意識が変わってしまう。皮肉なことだと思う。

国土強靭化すればするほど人は災害に対し脆弱になる。この程度の災害ならいいけれど、何もかも数週間単位で回らなくなる災害が起きたらどうなるのだろう? 強靭化で対策できる範囲の災害で人は慣れ、その範囲では損失は減るかもしれないけど、慣れたが故にそれ以上の災害が起きた時に対応能力を欠いてしまうのではないか。家畜と一緒にすると怒られそうだけど他に例えようがない。

 

国が滅べば人も滅ぶ、本当にそれでいいのだろうか。人が国を構成するのなら、人が強くなることが先ではないのか。そうやって国は出来てきたのに、国が国であるために逆のことが起きてしまう。不思議。

 

 

氾濫。元々川があってそこを開発して人が住むんだから、本来的な氾濫に文句を言うのはお門違いではないだろうか。はげ山に家を作って地滑りが起きたと騒ぐのと変わらない。

デベロッパーに騙された?他人事だから騙されるんでしょ。そこを魅力的だと思って住むのなら騙されたとは言わない。

国のせいでも自治体のせいでも自然のせいでもないと思う。災害は災害。生きる、住むというのはそもそもそういう災害も享受するものではないの?デベロッパーはそもそもこの認識の社会の上に成り立って開発を行う生き物なのだから、それを問題視するのも違う。問題視するべきは社会や国、自然に対するひとりひとりの認識の方ではないの?

 

 

現代の社会というのが一定の価値観で回っているのは分かる。利便性、経済性、安全、平等、管理。その為に今のような住環境ができ、だからこそ防災や治水が必要な役割を担っているのも分かる。

でもあまりに、偏っていると思う。

 

既に正解なんてない世界。

でもあまりに回答が偏っている時、そこに正解はなかったのが歴史の主張だと思う。