背徳感、その特殊な快さは筆舌し難いものがある。
必要上改宗し、仕方なくも善い子に過ごしていた日々。善い子でいるのをやめ、禁忌を破った時のゾクゾクとする快感。
その快感は、僕にとっては他の快感と同じく報酬であった。禁忌とされるものに相乗効果として与えられる快感。
後悔などなかった。善い子で居たのは必要があったからだ。そもそも僕は人を裏切ってはいないから、後悔する必要がない。神は僕の中にも外にも居ない。
でももし心からその神を愛し、その下の平等の恍惚に浸っていたら。枠にどっぷりと身を置いていたら。その背徳感はさらに大きかったかもしれない。そう考えるともったいないことをしたかなぁとも思う。そんな自分は想像もできないのだけれど。
背徳感という快感は回を重ねるごとに薄れた。その枠を破ってその外に身を置いたからだと僕は解釈している。
だとするなら、背徳感は枠の中のルールを破ること、枠を突き破ることに対する本能的な報酬なのかもしれない。そんなルールや押し付けられる倫理など、身体が理解できるはずがないのだから。
徳なんてものは存在するのかすらわからない。その自分を縛る意味の分からないものに背くのは、きっと自由への一歩だから。そう自分の中の誰かが言うのだろう。
マイティな感覚というのか、何かを打ち破った時に見ることが出来る一瞬の儚い夢。崇高なる劣情。
背徳感に甘酸っぱさを感じるのは、恐らく自分がかつて甘酸っぱい思春期に味わったものだからだろう。なんとなくいけないものと感じながらも手が出る性への興味。変化の中では本能が打ち破らなければいけないものが出てくる。人間である限りは。
その甘酸っぱい快感は、背徳感という言葉を知る前に感じる最初の背徳感なのかもしれない。
群れの中でボスを倒した時の感覚もこうなのではないかと感じた。それはきっと、兄弟や肉親、近ければ近いほどに強く働いてくれるのだろう。傷つく心を忘れさせてくれる麻酔薬のように。
僕は快楽主義者というわけでもないと思う。でも快楽がそこにあるのなら、新しい情景がそこにあるのなら、何故それを拒むふりをするのだろう。素直に味わえばいいと思う。
国籍を捨てるのも背徳感が付随する解放感がありそうだ。実害があるからできないけれど。
人間を辞めることが出来ればもっと大きな背徳感が得られるかもしれない。
それが堕天した堕天使と同じだというのなら、天使も悪魔も同義だと思う。
別に悪魔になりたいとか堕天使になりたいとかそういうことを言っているのではなく、天使が天使足るのは傲慢に足るからだと思うから。
堕ちるというのは天が上にあるという前提があるからだ。天から見た視点でしかない。堕天する者にとってはそうなのだろうか。その前提が崩れているのなら、快楽とともに上に昇るのかもしれない。
だからこそ堕天する快楽というのは凄まじいのではないか。それはその者にとっては、きっと昇天に等しいから。
皆が背徳感を感じなくなるほどにその劣情に身を任せて徳など棄ててしまえば、世の中もっと良くなるのかなぁと思う。
無秩序を求めるわけではない。人はそれを乗り越えていけると思う。
でももしそれが出来ず、マッドマックスのような世界になりそれが続くというのなら、人間なんてそこまでの存在だということだと思う。そうはならないと思うんだけどな。
昼間からいったい何を考えているのだろう。遂に狂ったなとか思われそう。
マングローブクラブに挟まれ、その流血と痛みに生の実感と歓びを感じるぐらいには今日も僕は正気です。