感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

命のやり取り 子供の見る世界と持つ世界 押し付け

おかげさまで今日は大分元気になりました。

 

昨日書いた中で、僕は必要なら魚もニワトリも鹿も殺すと書いたと思う。それは食べるために必要だから。僕にとっての害獣も殺すことはある。でもそういうものだと思っているので、それについてはそこまで気にならない。ただ自分で手を下すのは、その方がいいかなぁと思うから。そこまで深い意味があるわけでもない。

 

命のやり取りについては綺麗事でもあるけれど、僕には実感が必要。

実感はなにも負の要素だけでなく、五感で感じる中、昂ぶりや喜びも感じる。僕は自分が自然の中に在ることの実感が何よりも必要で、その中にいれば生も死も、教えられてきた死生観とは別の軸で受け入れることができる。そういうものだと。

 

食べ物に関しても同じ。それは以前書いた気がする。生きていた時の形や匂いを調理の過程で、五感で、身体で実感することは僕にとっては意味のあること。精神の安定にも欠かせない。あまりにかけ離れた生活だと見失ってしまうから。

 

でもこれらは飽くまで僕の感覚や価値観であって、それは人によって違うだろうし、それでいい。

食べ物の部分は身体で感じる部分なので、結構色んな人に合うんじゃないかなとは思う。これは命の価値観とは繋がるけど少し違う話。

 

 

本題。

昨日、「動物を殺す」というものを書いた以上、ひとつ付け加えておきたかったことがあった。

 

子供達にニワトリやブタを屠殺する現場を見せたり、実際にそれをやらせたりする教室や合宿があるが、それは僕は嫌い。

 

命に対してどう向き合うかは人それぞれだけど、通念的な価値観は『死を避ける』、『残酷なものは遠ざける』、『命を守る』、『生き物を愛でる』方向に向いている。スーパーでも元の形がわからないような形で接することになり、子供の多くは知識的になんとなく鶏肉はニワトリ、豚肉はブタと知っている程度。

彼らの中では生きている姿と食料は切り離され、多くは矛盾を持っていない。

 

それを急に、子供たちの見て感じて育ってきた世界、それを基に内側で育まれつつある世界を無視して、大人の思いつき的に子供に見せつけるのはすごく勝手なやり方だと思う。

現行の通念と逆を行く部分のあるものを教えるというのは、逆である以上否定の意味が出る。その否定の矛先はどこに向かうだろうか。

 

こういう教室は教える立場の横暴であって、ショック療法だとか思想矯正キャンプ的なものに見える。育まれてきた純粋なものを一方的な偏愛で歪ませる身勝手な行為だと思う。

もちろんそれが合う子も中にはいるのかもしれないけど、そうじゃない子も沢山居る。

 

親や大人が「大人になって現実を知り、それに感動や憤りを覚えたから子供にも」だとか、「昔はそうだったからその感覚を持たせたい」とか、それは自分だけ見て色んなことを無視しているように思う。

親が自分の心に見た花の種を子に植え付けたとしても、同じ形で同じ色の花が咲くようなものでは決してない。その種が持っている他の花を蝕むこともある。

 

子供一人一人の持つ世界は全て違う。

それを一大人の感覚で、子供たちが築いてきた今までの世界を否定するような価値観を植え付けようとするというのはとても大きなことで、自分の内側の世界を信用できなくなったり、外側の世界の見え方が変わってしまったり、自分自身を肯定できなくなる子も出るんじゃないかと心配になる。

そういうことは世の中に多いけど、自分も連鎖の中に関わる食や命の話であればより重い。

 

自分が楽しいからと小さい子供にホラー映画を観せるのと感覚が似ているのかな。

 

命との関わり方、これも僕は教えるものではないと思う。長い年月をかけて見て育つ内に自ずと育まれるもの。短絡的に教えられるものではないと思う。

 

普段から家でニワトリを殺して一緒に食べてるとか、それなら話は別。そういう教育方針ならそうすればいいし、できる風土の場所に引っ越せばいい。

 

そうでないのなら、次の世代である子供自身がどう自分の世界、自分達の世界を築いていくのか信じて見守ってあげればいいと思う。それが今の世界を築いている大人の責任というか、必要な姿勢なんじゃないかと思う。否定の姿勢が次の世代の否定の姿勢に繋がって、そんなことを続ける意味はないかなって。

 

死生観なんて悩む子はいずれ悩むし、命や自分との関わり方についても自ずと興味を持つものだから。そう焦る必要もないと思う。

 

そういう教室が悪いという意味ではなく、とても大きなものなので、受けさせるというのならその子自身、その子の置かれた世界をしっかり見て考えてからにして欲しいなぁと思う。

 

大人でもそれを見せる必要がないと思うような、純粋にその人なりの方法で命を愛でようという姿勢の人もいるのだから。それはそれでいいんじゃないかと思う。

 

ただ押し付けは僕は嫌いというだけです。