感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

ロードキル

少し重いかも。引きずりこまれそうな人は読まないでください。

 

 

今日はまた車で長距離移動だった。

山道、カーブを曲がり切ったところで犬が撥ねられていた。反対車線の真ん中でパタパタもがいていた。

 

また轢かれるかもしれない位置だったけど、僕は何もせずに通り過ぎた。

停まる場所がなかった。嘘。200m先には車を駐められる場所があった。でもそこでも止まらなかった。

 

本当は怖かった。大型犬だったから怖かった。それに高速で車が入ってくる場所だったから。

自分の安全や色んなものを計算して見捨てた。苦しむ姿をどうでもいいことと天秤にかけて、どうでもいいことを選んだ。

 

前回は仔犬だったし、見通しが良い場所だったから道端の日陰まで運んだ。でも今回は見捨てた。

結局自分の都合で僕は動かない選択をしてしまった。

いつでも引き返せたのに、誰かがやってくれると人任せにして放置した。

 

3秒くらいの出来事だった。でもその一瞬が脳裏から離れなくなった。

しばらく動揺して運転もままならなかったけど、山の空気は澄んでいて、少し休憩したら落ち着いた。

でもあの一瞬は鮮明に焼き付いた。そして僕の選択も残り続ける。

 

ロードキルは沢山ある。今日も覚えてるだけで7匹は死んでた。でもそれは僕にとっては耐えられる辛さ。

辛いのは死ぬ前を想像してしまうからであって直接的ではない。どんな形状であろうと死体は死体。僕にとってはそこに継続性はない。結果。

 

生きてく苦しんでいる子を見るのは本当にダメージが大きい。直接的な苦しみの姿が入ってくる。それは接点が一瞬であっても継続的なもので、だからこそ残ってしまう。

内側で乱反射して自分の感覚と混ざって増幅される。

生の痛みの光景だから生の感覚になる。

誰かが助けてくれただろうか。

 

こんなことを何のために書くのかも分からない。吐き出したいのか、悲劇のヒロインを装いたいのか、自己顕示欲なのか。

苦しんでいたのは犬なのに、勝手にダメージを受けて勝手に理解されたがっている。気持ち悪いと思う。

 

僕は必要があれば魚も殺すし、鶏やシカも殺すし、ネズミやイノシシも殺す。

締めるとか駆除するとかこっちの都合で言い換えたくない。必要があって殺す。

それは耐えられる。必要があるし、そういうものだから。だからこそ僕が実行しなければならない。

 

でもなぜあの子が苦しむ必要があったのだろうか。そこに居るしかないからそこに居て撥ねられた。

道路ができて、車が走り、祖先が連れてこられた犬はただそこで生まれた。そしてそこで生きて撥ねられる。

沢山の犬や猫が道路脇で跳ねられるのを待っている。

 

動物を撥ねてもハンドルは切るなと言われてもそうできる自信がない。動物が道路脇に見える度に気が気じゃなくて減速して反対方向に寄ってしまう。今日は向かってきた犬がいて急ブレーキを踏んだ。早めに気づいていたから後ろに車がいないことも確認できてていたけど、毎回そうだとも限らない。

 

高校の3年の時、唯一の心の支えだったインコが僕の不注意で2週間苦しんだ末に僕の誕生日に死んだ。本当に辛かった時期を耐えることが出来たのはあの子がいたからだった。

でも僕のせいで苦しんで死んだ。僕が殺したも同然だった。同然?僕が殺した。

 

こんなことを書くつもりはなかったのに。弱い。

 

長距離運転する度にダメージを受ける。でもしないわけにもいかない。慣れるものなのだろうか。少なくとも運転する限り、見なくてはならない光景なのに。

もし手を加える側になった時耐えられるだろうか。事故だと割り切れるだろうか。

 

割り切れない性格なのが悪いのも気付いてる。でも割り切りたくもない。

強くなりたいな。

 

 

もう落ち着いていて大丈夫ですし、コメントもいいです。書いておいて投げっぱなしでごめんなさい。明日から森なので大丈夫。

 

やっぱり掃き溜めブログになる運命かな。