今日は楽しいことが書きたいので、この前海で思ったことや感じたことを写真で振り返ってみようと思う。携帯画像なので画質は悪いです。貰い物だしレンズも曇ってる。
到着後休憩がてら屋台カフェでコーヒーを飲んでる時の光景。これ好き。
もはやブランコとして機能しないけどそこに座る、女の子の「そこにブランコがあるから」という確固とした意志を感じる。というのは冗談。
子供の頃は時間の流れが遅くて、ぼーっとする時間も短かったけど、その儚い時間も今想うと愛おしくもあり恋しいな。今でもしょっちゅうぼーっとしてるけど。
瞬間を写せるから写真は好き。光景も人や動物の動きも、感情や思考、そこに表出する表情も全て瞬間。自分の見たそれを残せるとやっぱり嬉しい。
海は色んな顔を見せてくれるから親近感がある。その時によって変わる波のリズムも好き。
この日はちょっと落ち着かない感じだった。自分が反映されるんだろうなぁと思うけど。
寄せては引く波に揉まれ、砂粒同士で擦れ合い、小さくなり続ける砂粒。でもその繰り返しからは中々逃れることができず、突発的に抜けられる一部を除けば、十分に軽くなるまで砂浜に囚われ続ける。
時間が存在する以上全ての物質は過程であると思う。この砂粒たちもものすごい時間をかけてこの形になりここに来たのだろう。
今ここに囚われているのも過程。
そんな砂粒が数え切れないほどあり、そんな砂浜が数え切れないほどある。そしてそんな砂浜がある惑星が銀河には沢山あって、そんな銀河が宇宙に沢山あって、宇宙もきっと沢山ある。
波に乗り足を擦れていく砂たちを感じながらそんなことを思っていた。
どうでもいいけどね。多分。
短時間ででき短時間で崩れる地形もあれば、できるのに時間がかかり長時間そのままの地形もある。見る側の尺度でしかない。
巻貝ドリルの流星のような軌跡。すぐに消えてしまう。それでも彼は進み続ける。
丸が9になる瞬間を目撃した。僕が唯一の目撃者。
雨粒のクレーター。ちょっと月みたい。
この砂浜にどれだけこのクレーターができては消えるのだろう。その砂浜がこの地球にはどのくらいあって…
この思考の癖は健康的じゃないかもしれない。意味のないことを考えて虚しくなる。いや、僕にとっては意味があるから考えるのかもしれない。わかんないけど。
カニの砂団子。カニの大きさによって大きさが違うんだなぁと思った。当たり前だけど。
形が地球から見た銀河みたい。
地形によって波も変わる。その波によって映し出される光も変わり、全く違う風景を見せてくれる。まるで心の中の景色のようだなぁと思う。どっちが先なのか知らないけど。
良くも悪くも人間の存在の証。
僕がそこに存在した証はもう消えているだろう。死後もそのくらいさっぱりしたいかな。
僕もそこでじっとしていたら埋もれるんだろうなぁと思った。その前に溺死するだろうけど。人間の世界も似ているのかな。だから皆もがく。
1人になりたくて人のいない所まで歩いた。でも暗くなったら帰らなきゃいけない。帰ろうにもこの黒い人影達を見て帰りたくなくなった。
置いてきたサンダルが心配だった。
落ち着いたところで人の群れを見ると胸がざわつく。決して人嫌いではないんですよ。でも集団は無理。身体が拒絶する。1人2人でも疲れてると相手によっては無理。
沈む夕陽。一日の終わり。夜の始まり。
これを見ると久々にちゃんとした写真撮りたくなってくる。でも一眼レフは荷物になるし、コンデジは壊れちゃったし。最近趣味にも腰が重い。老化早そう。
これを見にきた。夕陽が沈んだ後の景色。
空と海の境界を超える夕陽のグラデーション。空と海に境界があるからこそ、この色の調和、共鳴は生まれるんだろうなと思う。景色も綺麗だけど、景色だけではない空間。
携帯画像なのであれだけど、実物は本当に美しい。言葉も何も必要がない空間になる。
目に映る光景、風の感触、潮の香り、波の奏でる音。全てがその瞬間であって、五感を通しその空間に包まれることで、思考する必要もなく僕はそこに存在することができる。それが僕にとっての安息なんだと思う。全てが穏やかに、全てが繋がることで自分が認識できる。
その場を共有すればこんな説明も要らない。それってすごいなって思う。
でもこの日はバイクが疾走してたのでちょっと邪魔された気がした。でもその人もそんな空間を疾走して気持ちよかったんだろうし、まぁいいかなとも思う。
特にオチもないです。
うーん、僕にとっての楽しいはこういう風になってしまうのかもしれない。パーッと明るくっていうタイプじゃないからあれだけど、結構楽しいつもりなのです。
おしまい
*今日から2週間村なのであまり開けないかもしれません。