感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

残った自分 減ってしまった自分 拘束されている自分

僕の存在を認めてくれる人が隣にいる時、普段なら委縮してしまうような人を前にしても、僕は自分を保つことが出来た。自分らしく受け答えできた。

 

その時に頭に浮かんだ光景が、普段親や教師の言うことを素直に聞いている子供が友達と一緒になると、子供たちは誰の言うことも聞かず収拾がつかなくなる光景だった。

サルのようだと表現されたりもする光景。

 

親や教師は普段見て接する子供の姿をその子そのものだと認識する場合が多い。

でも本当にそうだろうか。友達と一緒に嵐を巻き起こしている子供は生き生きとしている。

自分を保ち、自分らしく受け答えできた時の僕も生き生きとしていただろう。

僕は自分自身の内面を雁字搦めにしている人間なので、どちらの自分が本当の自分なのかわからなくなる。自分の内面を出すことに恐れがある。

 

もしその子供が僕のようなタイプなのであれば、その生き生きとしている瞬間は貴重だ。でももし、その生き生きとした、楽しく自信に満ち、自分を解放している瞬間を大人に否定されたとしたら。友達と居ることで解放できる自分を否定され、普段のコントロール下の自分が正しいものとされたとしたら。

自分の2つの面が1つにされてしまう。

その子がコントロール下の自分だけを認めることで自分を維持できても、そのコントロール故に辛い思いをするかもしれない。

 

それは常に全力で生きる子供たちにも、もしかしたら大人になった僕たちにも、全ての瞬間において当てはまるのかもしれない。

自分が自分であるのは肯定される一瞬だけではない。すべての瞬間が自分自身であるのだから。

サルのような時も、コントロールに身を置いている時も、落ち込んでいる時も、暴れている時も、好奇心に振り回される時も、優しさ・慈しみをもって人と接する時も、人を傷つけてしまっている時でさえも、全てが自分自身。

 

否定されれば否定されただけ自分が減ってしまう。そう考えると恐ろしくなった。

減ってしまった自分を自分自身として取り戻すのは難しい。それは残っている自分自身が邪魔をするから。それは僕ではない、僕は僕だと。

 

多くの人が自分自身に辛さを抱えている。それはある意味で、減ってしまった自分が泣き叫んでいるのではないかなって思った。

 

僕の中に見える、拘束衣に包まれたハンニバル・レクターのような拘束されている自分も、泣いているのかもしれない。

拘束しているのは残っている自分だ。彼は「拘束を解いてはいけない」と言う。

でも拘束されている自分は日増しに強くなる。

それがとても辛く苦しい。

どちらの言い分が正しいのか今の僕には分からない。

いつかわかるのだろうか。

 

 

気を付けようと思う。

それはいつも、意図せずとも起こるものだから。

否定も肯定も、存在にかかわることだから。

生き生きできるのが一番いいと僕は思う。だって生きているのだもの。

 

気づきをくれた2人、大切な友達にも、僕を委縮させる人にも感謝したい。