感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

戦争 戦没者の価値観 現代人の祈り

暴走気味なので長いです。読む価値もないと思います。でも噛みつきたかった。

 

戦争が悲惨なもの『でないといけないという空気』が嫌い。

 

国民の多数で戦争を支持しておいて、敗戦したら死んだ人たちに向かって「過ちを繰り返しません。」って勝手すぎると思う。

過ちで済ますの?誰の過ちにするの?

 

終戦記念日の黙とう呼び掛け=政府:時事ドットコム

>>「戦禍に倒れた戦没者の尊い犠牲に思いを致し、全国民が深く追悼の誠をささげるとともに、恒久平和の確立への誓いを新たにしようとするものだ」

 

追悼と恒久平和の確立への誓いは繋がるの?その誓いは戦没者と共有できるものなの?

そうでないなら追悼とは切り離してやるべきだと思う。

この人は政治家だからそういうパフォーマンスも必要なのだろうけど、それはそういうパフォーマンスが必要な空気が世の中の多数側であることの裏返しでもある。

 

死んだ人達の想いはどうなるのだろう。

戦地に赴いた人たちの多くは、その戦争を支持するムードや誇らしいと思う家族の想いに背中を押されて旅立って行った人も多いだろう。

少なくとも戻らなかった彼らにとっては、出発の時の帽振れや見送りの家族の言葉が最後の思いの接点だろう。その人達を死地へ送っていった念いを、「やっぱり間違いでした」で済ますの?

 

敗戦したからと戦争自体を狂気の沙汰、悲劇の過去とするのは、敢闘虚しく散った人たちの尊厳を、人として、祖先として守ろうとする意識の表れだと思う。でも想いを投げ捨てた尊厳に意味があるのだろうか。

結局ただ現代の価値観で勝手に過去の人々を裁いているだけではないかと思う。

 

思想も政治も情勢も、いくつもの流れがあって、戦争はその流れの延長で起きるもの。急に起きる悲劇ではないと思う。

そこには利用される・されないを問わず、民衆を動かす大義なり、正義なり、原動力となった個々の想いもあるはず。それはぶつかる双方に当たり前にあるもの。祖国の為というのが間接的に家族の為という意味を持つのも同じ。

それを美しいと言うと怒られるだろうが、その強い思いを現代の価値観で認めないことを正当化する為に悲惨、悲劇とばかり言っているように僕には見えてしまう。話を逸らしているだけではないの?

 

その平和への祈りは誰に向けられているのだろう。

戦死、戦病死した兵や、それをサポートしていた民間の戦没者の存在を認めているのだろうか。

彼らが見据えていた未来はその平和なのだろうか。

違っていても想いがあるから、死に対する慰め、祈りだから慰霊だと一方的に言い張って墓や碑の前で勝手に祈り、全国で黙とうするのは乱暴ではないだろうか。

周りが祈ってるから。そういうものだから。祈らないのは冒涜だ。

結局広島を聖地のひとつにした国家宗教が出来ただけではないの?その宗教はどこを向いているの?

 

戦没者を偲ぶこと、追悼することは一人一人がすることだと思う。式典があるのはいい。でもそれぞれの想いの中ですることだ。

そうでないから黙とうすること、祈ること、誓うことを通して、自分の所属するTribe的なものに自分の行動を見せつけることが目的に取って代わってしまう。自粛ムードも同じ。戦没者や犠牲者、被災者を想う気持ちを盾に、自分の所属する枠に対して行動を示して満足しているのがその空気だと感じる。

そこに想いは薄く、空虚だからお仕着せがましいものが入る余地を与えてしまう。

小学校で度々あった黙とうも意味が分からなかった。

 

僕らは歴史上の出来事に関して、現代の価値観でしか見ることが出来ない。価値観を共有していないから。

大英帝国が多数の植民地支配をした。それは事実だろう。その過程で沢山の人が死んだ。それも事実だし、支配の過程で人を人と扱っていなかった。それも事実だと思う。

でもその人達は当時の彼らの価値観では人ではなかった。それも事実。

知人はよくイギリス人を残虐だと叩く。でもそれに何の意味があるのだろう。

彼らの価値観も流れの中で変化している。彼はその変化を認めないで、過去の残虐性や排他性を根拠に現代のイギリス人をも叩く。

でもその価値観の中に生まれていたら、彼はどう生きただろうか。黒人とハグ出来たのか。現代の価値観、我々の価値観で過去の人を裁くことに何の意味があるのだろう。それを更に現代の人々に当て嵌めることで何が得られるのだろう。

 

先ずは事実を認めなければ、その上で自分たちの残虐性とも向かい合い、認めなければ何も変わらないと思っている。

老人になって自分の経験で若者を叩くのも同じ。それを続ければ次の世代の価値観で裁かれる側に回るのは自分ではないか。当然の流れと受け容れてそのサイクルを続けるの?

 

それらと同じで、戦時の価値観を否定から入っているのが現代の祈りと感じる。

その祈りを受ける為に彼らは死んでいったの?

特攻隊員が遺族に宛てた手紙を集めた本や、戦地に居る人達が遺族に宛てた手紙を集めた本がある。

そこにはそれぞれに、大きな流れ・理念・大義に身を任せながらも、鬼畜米英から家族や祖国を守ろうという意志、戦地から家族を想う人達の言葉、戦死した戦友に宛てた言葉など、色々な感情のこもった手紙が遺されている。本当にその一つ一つが、僕たちには理解のできない壮絶な、様々な思いのこもった手紙。

 その平和への祈りは、彼ら一人一人の念いを認めているのだろうか。死地へと

彼らの背中を押した念いを認めているのだろうか。否定から入るために無下にしているのではないか。

ポツダム宣言受諾を周知した日を祝日にして、その日に祈るって、死んでいった人たちはどう思うだろう。生き残った人と死んだ人は違う。両者にとっては認識の分岐点であって、それを飲めるのは前者だけだろう。

 

誇り、忠誠、仁義、信念、情熱、迷い、後ろめたさ、そういったものに隠れた優しさや愛情、悲しみ、恐れ、楽しみなどの感情と平和への想いは矛盾するものだとは思わない。いや、矛盾してもいいと思う。人から矛盾を取り払ったら狂気ばかりが目立つから。

それらを無視した祈りや誓いは、彼らの死を喪失と悲壮だけで切り捨て、勝手な思いに繋げる。

 

僕は悲劇の側面を否定するわけではない。

でもその戦争そのものを全否定する態度、悲劇を崇めて自分は関係ないですという全体的な態度が気に食わない。

その否定で何が得られるのだろう。

  

 

『戦争は人を狂わせる』

この言葉にも自分達が正常という偏っているかもしれない見方、そして戦時、戦後の人の変化を『戦争のせいで人が狂ってしまった』と、戦争という事象を原因にして一般化することで、その人々の変化を貶めることを正当化しているように感じる。

 

平和教育がまさにそれだった。ひたすら戦争を悲惨なものとして自分達の価値観を正しいものとせんが為に感情ばかりを煽り、子供であった僕の気持ちにまで入り込もうとしてきた。

クラス全てが同じ価値観、同じ類の感情、同じ気持ちに根ざす感想、同じ方向の認識を共有しなければいけない、僕にとっては異様な空間だった。

そんなことばかりがあったからと言うと言い訳になるだろうが、僕はアウトプットが苦手になった。自分の抱く感想はみんなと違うから恥ずかしいものだ、いけないものだという感覚が内面に出来てしまった。話がずれそう。

 

その戦時の人の想いが全く入っていない平和教育で本当に平和が保てるの?それは思想教育であって、プロパガンダと何が違うのだろう。僕はその乱暴な態度の方が狂ってると思う。

 主体性を奪って集団のムードに従うことばかり教えて、その排他的な集団は本当に戦争と平和というものを考えることが出来るのだろうか。

 

終戦記念アニメとか、そういった戦争に関する作品は、戦後の価値観が透いて見えるのが嫌い。勝手な思いを混ぜるならノンフィクションというべきではないだろう。清々しい分幸福の科学の作ったアニメの方が良くできているとさえ思う。(比較して良いだけで観る価値があるというわけではなく)

終戦の日には仲のいい友達と、その日に放送される終戦記念アニメを観て笑った。子供が観ても偏った、悲惨さばかりを強調して感情にばかり訴えかけるものばかりだった。敢えて観て、笑って否定することが僕にとっての唯一の抵抗だった。

 戦時中のプロパガンダと言われる作品と方向性が違うだけでやっていることがあまり変わらない。戦時作品の方が生きた意志な分、心に響くものがある。戦後の作品の伝えようとするところは生気がなく、どこか亡霊的に感じるものが多い。観ていると魂を抜かれそうな気がしてくる。

ゾンビ製造機とまでは言わないけれど、それに似た何かがあると僕は感じる。

 趣向の問題だろうけど。

 

戦争体験者は悲惨さから口を噤むという。それは本当にただ悲惨だったからなのだろうか。

あまりに価値観が違うところに浸かっていれば、それと逆行することを口にするのが難しいのは当然だと思う。

悲惨なことも認められるのなら話すこともできる場合があるのではないか。

語るのに「勇気が必要」と老人に思わせる何かがあるのではないだろうか。その老人が語ったのが、「戦争やるなら負けちゃいけません。」だった。

教師はその体験者の言葉を否定した。

 

全体としての空気はともかく、個人の性格や体験にもよるところまでも、全て悲惨の一言に結び付けて片づけるのは良くないと思う。

そこに、平和を考えるという態度はない。反戦ばかりが前を行って、その価値観を植え付けることが目的となっている。 

平和教育ではなく堂々と反戦思想教育と言えばいいのにと思う。

反戦と平和は繋がるの? 

 

 

人が人である以上争いは起きるのだし、国が国として今の形で存在する以上国家間の戦争も起きるものだと思う。非対称戦やテロに至っては毎日起きている。イデオロギーがあれば対立も起きる。

その中で戦争を悲惨だからと否定だけしても、ただ目を逸らしているだけにしか見えない。 

本当に平和を続けたいのなら、国家間の全面衝突を回避したいのなら、なぜ事実の流れから目を背け、当時の人の想いを無視するのだろう。

恒久平和?その暴力的な姿勢で?もう僕のことをユートピアンと言えないね。

 

戦争はなぜ忌むべきものなの?死や苦しみ、悲しみ、痛みを生むから?死や苦しみ、悲しみ、痛みから目を逸らして生はあるの? 

 

子供っぽくてごめんね。この空気そのものがよくわかんないし嫌い。気持ち悪い。空気が。