感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

子育ての価値観 『子作り』

この国には雨季がある。

面白いことに、集落なんかだと雨季には子供ができるという認識がある。

単純な理屈で、雨が降ると暇だし、涼しくて過ごし易いから自然とそうなる。

理由はそれだけではないだろうが、集落では5人兄弟以上が当たり前となる。日本では多い方だと思ってきた3人兄弟の僕は、ここだと「かわいそう」と言われる。価値観の違いだなぁと思う。

避妊がないのもそう。子育てのプランがないのもそう。そもそも子作りという認識もない。子供は自然と出来るもの、授かるものだ。

日本でも子宝は授かりものと言う。その価値観はどこでも一般的なものだった。

 

でも現在の日本の価値観では避妊をするのが普通となる。結婚前に不用意に妊娠すれば叩かれる。それは近代以降は当たり前となったが、不用意に妊娠してはいけないという価値観が刷り込まれてしまっている気もする。そしてそれは自然と出来ることへの拒否感として結婚後にも引きずっている感じを受ける。

バースコントロールが必要だという認識は、子供を自分たちだけで育てなくてはならない、子供を学校に行かせること、食べさせることも含めて養育プランも考えなければいけない現代の現実と結びついた。そして子供はいつしか授かるものではなく、お財布やカレンダーと相談しながら作るものになってしまった。

誰がどうこうという話ではない。これは僕自身に刷り込まれた価値観の話。色んな人がいるので、人の数だけ事実があると思う。

 

より自然に、より本能的に、より動物的に生きたいという思いの自分とはかけ離れているが、決して捨てることが出来ない価値観になってしまっている。嫌だなぁと思うけど、どうしようもない。実際子供を作ることを考えようとすれば、瞬時に脳が勘定を始める。子供の選択肢を考えるなら学校にやるお金も必要だと。不思議な価値観だなぁと思うけど、それで生き方が変わる世の中では仕方ないことでもあると思う。

 

バースコントロールは確かに必要な場合もあるだろう。途上国ではそれで失われる子もいる。でもそれを自然と捉えるなら、数を減らしてしっかり育てようというのは不自然なのかもしれない。

 

日本の都市環境と言うのは既に不自然な環境だ。現代では子供は育つものではなく、育てるものでもある。そう決められている。その不自然の中で自然に子供が出来ていけば自然に不幸になる確率も高くなる(と今は頭に浮かんだ)。

不自然な中では自然が正しいとは限らない。

 

ただ、人の生体、本能はより自然なものだと僕は思う。動物は身体も環境も準備ができれば自然と子供ができる。子供が出来ないと悩む人が多いが、それはどこかで準備が出来ていないと身体が判断しているのが原因の場合もあるのではないかなぁと思う。それはこの不自然な環境下では仕方のないことだと思う。

「子作りに励みます!」とか、「排卵日だからどうのこうの」とか、そういうのを聞くと何だかもやっとした気分になる。あんまりそういう風に思考に引っ張られるのも良くないのではないかなぁと思う。

常に無意識に仕事やストレスがある生活で、「更に作らなきゃ!」「出来ないから病院に行かなきゃ」っていうのはちょっと言葉にしがたい不思議な世界だなぁと思う。

子育ての価値観のなかに『子作り』が入っている。本来は『自然と出来て自然と育つ』、そこから『自然と授かりしっかり育てる』、それが現在は『計画的に作って計画的に育てる』になりつつある。

 

不妊というけれど、それは状態であって原因は何なのであろう。(先天的、恒常的なものの話はここでは抜きとして)心身不一致や環境の不一致がどの程度影響しているかはどの程度一般的に考えられているのだろうか。

 

 

それよりも雨季の村落民のように、自然と授かる環境、生活に一時的にでも身を置いてみることを意識してみてはどうだろう。授かるのは思考ではなく身体で、本能的な活動でできるものなのだから。

とはいってもお仕事が第一で、お仕事がなければ子供が産まれても育てられない日本では、「そんな暇はない」って言われるかもしれない。でも雨季は『暇だから』ストレスがなく、自然とそういうモードに身体が入り、行動が起きて、自然と授かるものだと思う。雨季じゃなくても村の生活はそういうものだ。雨季は昼間からそうなるだけ。

こんなこと忙しい中、しかも悩んでる人に言えるわけがないのだけど。

 

お仕事休んだらその心配がストレスになってそれどころじゃなくなっちゃうとしたら、それは社会そのものが病んでいるんだろうと思う。

少子化、不妊症(の一部)、精神病・神経症(の大半)、自然の中では不自然な現象だけど、不自然な中では自然な現象なのかもしれないと思う。

 

何もかも狂ってるように見える。外から見てる僕が狂ってるのか、内側が狂ってるのか、その両方なのか、果たしてどれだろう。