感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

意識が高い人

意識が高いとはどういう意味なのだろう。聞く度に引っかかる。

環境を勉強する学生さんなんかと関わることがあって、そういう子たちが使うことがある言葉。

 

『環境意識が高い』というように、何かに関して自覚があることを意識があるというようだ。

それが高いから高く自覚しているという意味なのだろうか。それとも自覚に関する何かが高いのだろうか。

 

色々な観点での自分の立ち位置を認識するという意味で、『自覚』があるというのは大切なことだと思う。

ただそれを公言する意味は僕はないと思っている。それぞれ違った『自覚』があるはずだが、「意識が高い」、「意識を高くもとう」と言う人たちは自分の認識している自覚しか認めない人が多い。それはその人達が集団で共有している立ち位置で、その人本人のものでないように感じる場合もある。

 

意識が高いという言葉には、ある観点において自分達が高位の集団にあるという一種のマウント的なものがあるように思う。それは『高い』という言葉に現れているように、彼らが『高い』、『低い』のようなレベル上に自分や周りを当てはめているからだと思う。

 

多分それがいちいち僕の癇に障るのだと思う。

意識が高いと自分で思っていたり、それを目指したいなら目指せばいいけれど、そのようにレベルに当て嵌める認識をしている限り、誰かを見下している空気を漂わせている。

その態度は本当に意識が高い人がするべきことなのだろうか。そういった物事の見方がどんな負を作り出してきたかを認識せずに意識が高いと言えるのだろうか。

その僕が勝手に感じている矛盾が『意識が高い』という曖昧な言葉の中から連想されるから、僕は嫌なものを感じるのだろう。

 

環境に良いことを学ぼうとか、環境負荷の少ない社会を目指そうとか、その中で自分の立ち位置を明確にすることは良いと思う。でもその自分を意識が高いと位置づけることは、環境に関して知識が少ない人や関心があまりない人を意識が低いと位置づけることに繋がると思う。その高いから低いへ「教えてあげなきゃ」という意味の分からない正義感というか義務感がとても苦手。

自分として伝えようというのではなく、そういう人に限って集団の正義になるから余計押しつけがましいのだろうと思う。

 

啓発すること、伝えることは大切だと思うけれど、その態度だけはどうしても好きになれない。

 

もうちょっとこう、それぞれがそれぞれを尊重しながら、それぞれの想いや考えをそれぞれの想いや考えとしてただ伝えていけるようにはならないのかな。

月に移住したい。