感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

『Education』を振りかざす人 環境教育 社会階層

色々と書いて整理したかったことがあったのだけど、鼻炎でくしゃみが止まらず考え事に集中できない…

 

まぁでも書いてみようと思います。

 

環境問題に関わっているとよく見かけるのが環境意識の低い途上国の低所得層に対して、先進国の人や同じ国の中高所得層が『Education』という言葉を振りかざす場面。これが毎度ひっかかる。

 

学校にろくに行けていない低所得層が知識面で足りないのは事実だろう。教育機会に恵まれていない部分は考慮すべきだと思う。

でもそれに対して「Education」と叫ぶことは、自分が教育を受けた側であるからこそ出る言葉であって、それを盾にした糾弾以外の何ものでもない。

確かに教育を受け、環境意識が高いと言われるような生活が当たり前になった側からすれば、低所得者層の生活や環境意識の低さは目につくのだろう。彼らの行動はいちいちセンセーショナルに映る。土人とまで言うひとがいるけれど、それだけレベルが違うと感じるのだろう。

 

一概には言えないが構造として、彼らが低所得な生活を強いられている裏で、その分の利益をせしめているのは高所得層であり、その恩恵の一部を受けているのは中所得層であり、貿易の先で商品や資金を得る先進国民でもある。そしてその過程で高所得層や政府が起こす環境破壊は、低所得層が日々の生活の為に起こす環境破壊の比ではない。

低所得層は基本的に搾取されている側であり、数代にわたって教育機会に恵まれないスパイラルの中にいる。意識せずともより環境破壊に加担しているのも、搾取に加担しているのも、恩恵を受けている側の人間だろう。それなりに恵まれていると感じるのであれば、どこかしらで搾取に加担していると言い換えても良いのが今のキャピタリズム、グローバリズム中心の世界だろう。

コーヒー飲んでチョコレート食べて植物油脂使って、輸入した資源使って作った車に乗り、電気を使い、労働者が病気になりながら作った綿花を使って更に低賃金過剰労働で作られる服を着て、そんなのばっかり。適正に買っていると言うだろうが、価格競争がある以上単純労働者は相応の対価が貰えないし、開発で土地を奪われたり、生活・収入の源が汚染される人間も沢山出てくる。

それを無視して自分は環境意識が高い側に居ると言うのだからよくわからない。

 

実際に教育でどう変わるのか。環境教育でどう変わるのか、そこまでは『Education』を振りかざす人間は考えない。

教育機会に恵まれてもそれを活かせる状況に居るかは別問題だ。結局は低所得層である以上、低所得層であり続ける場合が多い。小さな村の子供が中途半端に教育を受けることで、街に行ってしがない労働者になり、村は過疎化するという事も起きている。結局上流を支配するのは上流の教育を受けさせ、コネを持っている上流の子供が多くなる。

教育は国をまとめる役割も果たす。それは言い換えれば少数民族のアイデンティティを奪う事にも繋がる。アイデンティティがなくなれば低所得ながら誇りを持てた民族の生活が、比較対象が大きな国となり、小さな貧乏人になり果てる。『Education』を振りかざす側はそこを考えているのだろうか。

 

環境教育は重要だと思うが、彼らの言うプラスチックがどうとか絶滅危惧種がどうとか、そんなことは低所得層は教えられたところで生活と結びつかない。それは生活に余裕がある者の世界の話だから。

枠という言葉を使えば、彼らはまた別の枠の中に住んでいて、そこではモラルやマナーから日常生活まですべてが別の軸で動いている。環境教育を押し付けたとしても、その価値観が根付く世界ではない。ましてや自分達より良い生活をしている人間たちがそれを持ち込むのだから、その時点で同国人の間ですら異文化交流となる。異文化交流では価値観の押しつけは厳禁だ。それはここにも当てはまるだろう。

人によって違いはあるが、概ね彼らに必要なのは日銭。環境教育よりも、環境負荷の少ない生活から日銭を得られるシステムを作る事、その継続の中で環境と自分の生活の繋がりを意識してもらうことが重要だと僕は思う。

それ抜きに『Education』を振りかざすのは本末転倒だと思う。理屈が先の世界ではなく、経験が優先される傾向があると思う。

理屈が先でも大丈夫な我々は既に恵まれているのかもしれない。

 

まだまだ書きたいことだらけだけど、くしゃみが止まらないのでもうそろそろ終わりにする。

 

最後にこれだけは書きたいのは、初中等の『Education』は出来るだけ同じコミュニティ、同じ地域、同じ国で作り直したものを同じ枠の構成員がやるべきだと思う。色んな意味があるが、枠の中の感覚は枠の中の人間にしかわからない。同じ未来の為に伝え、次世代を育むことが教育であるならば、同じ土壌を持った人がやらなければただ染めるだけの方向が強くなる。

環境教育も同じで、外から来た我々がどうこう言うべきものではないと思う。そのコミュニティの中に興味を持った者がいるならば、その者と交流をする。技術や知識を提供する。健全な関係を考えるなら、やっていいのはそこまでだと思う。その先にコミュニティへの『Education』が必要ならば、その者によって行われるのが健全だろう。

 

『Education』『教育』には『(上から下、有から無に)教え(てや)る』という強い意味が含まれていると感じがする。それを振りかざすのは白人さんが多いが、その言動にはかなり強要に近いものを僕は感じる。

そこには、僕は嫌いなのだけど、『意識レベル』『教育レベル』『知識レベル』『文化レベル』『倫理レベル』の高い・低い、そういった認識が無意識に作用しているのだと思う。

でも本当にそのレベルというのが正しいのか。見えないレベルという尺度に惑わされているだけではないのか。

そもそも違う枠で違う基準に生きる相手に同じレベルの基準が適用できるのかも考える必要があるのではないだろうか。考えるまでもなく適用できないと僕は思うのだけど。

傍若無人レベルの高さは認めてもいいけど。

 

 

やっぱりくしゃみが止まらないので終わり。