"Surfing Your Inner Sea : Essential Lessons for Lasting Serenity"という本の中で、著者のRaphael Cushnirは"The foundation of serenity is acceptance." と言っている。 心の平穏、平静において重要なのは第一に『受容すること』だそうだ。
「過去の傷も、うまくいかない仕事も、社会的・環境的な不正も、恒久的な変化のためには先ずは現状を受け容れることが大切だ」と彼は説いている。
目の前にある現状こそが紛れもない事実で、その存在、在り方を自然の摂理だと受け容れることを基礎に、その結果の連続である自分の存在自体を常に受容する。という事なのだと思う。
それを基礎に知覚や感情、思考を内観することによって自分自身を感情の波に左右されない位置に持っていくことで平静を保つというメソッドのようだ。
これは僕自身も何となくやってきたことで、しっかりできるのならかなり有効だと思う。
どちらかというと僕に足りないのは基礎となる受容の方だろう。
僕は結構歪んでいるので、他者を受容する努力は(回り回って自分の為に)自動的にするようになっているが、結局自分自身を受容しきれないが為に感情の渦に引きずり込まれるのだと思う。
それが良いのか悪いのかはわからないが、辛いのでやはり平穏が欲しい。
僕は過去を受け容れきれてはいない。
その時が来れば受け容れられるだろうと思って15年経ったが、中心の部分は封じたまま。
かなり前に色んな症状が辛くて薬漬けになっていた頃、EMDRという療法を受けた。不思議なもので、記憶の辛い部分は記憶喪失のように出て来なくなっているのだが、その両方を受けた時に一部が氷解したように脳裏に戻ってきたことがあった。フラッシュバックに近いものがあるが、もっとどっと、何かが瓦解するように押し寄せてくる感じだった。
それが本当に辛く、怖く、それ以上は掘り返したくないというか、本能的に掘り起こしてはいけないと感じた。
そんなこんなで月日は過ぎ、過去を切り離し2度死んだ3度目の別の人生だと思うことで、時間の助けもありそれなりに平穏を取り戻してきてはいる。
自分の内面は2年前に出会った大切な友達との対話を通し、大きく変化していると感じていた。
去年くらいから、いつも感じる何とも言えないストレスの中、変化の中にあっても、何かが足りないという気持ちばかりが強くなっていた。
そんな日々の中、ふとこのブログを開き、思った事や感じたことの発散の場とした。このブログは刻々と変化する僕の内面の中でも重要な役割を担っているのだと思う。
説明たらしく遠回しに書く必要もなく、足りない何かは『自己の受容』なのだと思う。
心の平穏が自分自身の大きな一つの目標だと気づいたのも2年ほど前だった。
今は以前に比べれば平穏ではあるが、本当の意味の平穏ではない
ただ単に溺れない術を身に着けた段階だと思う。でもそれでは何かが足りない。
この本の著者が言うように、「感情の波にサーフィンのように乗る」ようなものを僕自身が目指しているのかもわからないが、強く感じるからこそベーリング海のような心と共に生きるのは辛いし、Inner Peaceを目指すのは僕自身の在り方の上で重要だと思う。
この友達に僕の過去のことを伝えた時、「その過去があったから今の自分があると思えるようになる日が来るといいね」というようなことをとても慎重な言葉遣いで伝えてくれたことが心の中に大きく残っている。
言葉を濁して返してしまった記憶があるが、何か大きな意味のある言葉として残っていて、今も感謝している。
恐らく、答えはそこにあるのだろう。
でもどうすればいいのかまだ分からない。平穏、安息を求めたいけれど、その為の次の一歩はかなり険しいものだと感じている。
本当の意味での『自己の受容』『自己肯定』。過去を含めた自分と向き合うためには、やはり過去と対峙しなければいけないのだろうか。
過去という言葉を思い浮かべただけで、色々な感情が波立ち、震えが襲ってくる。
もう付きまとわないで欲しいとあんなにも思っていたのに、目を逸らしていたものの先に進むべき道があるような気がしている。
乗り越えられるだろうか。
目を向けようという気になっているだけ大きな変化なのだろうけど。
自分自身の存在を認めるのがこんなに難しいから、その反動で他者を認め、その自分を肯定しようとしていたのだろうか。
そうならば本当に卑しいと思う。
ほら、また引きずり込まれそうになってる。 やっぱりまだ無理だろうなぁ…。
『受容』の大切さについてもっとこう、外側のことを書こうと思っていたのに、前置きのつもりの内面の部分が膨らんでしまいました。溜まっていたものが出たのかな。
それについては気が向いたら今度書きます。