感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

『へんないきもの』『ざんねんないきもの』図鑑

子供向けの本のコーナーでは『へんないきもの』『ざんねんないきもの』等の図鑑があった。

小学生の頃図鑑好きだった僕はこういう本は無意識に避けていた。生き物について純粋に知りたいのに、こういった本は作った側の主観が強く、面白おかしく紹介しようとするものが多かった。それを子供ながらに押しつけがましいと感じた。

 

そういうのが楽しいと感じる子もいるだろうし、だから最近もそういう本が増えているのだろう。それは単に捉え方の違いというか、感覚の違いという事だと思う。

僕はただ、淡々とした一般的な図鑑が好きだった。

 

一つどうしても引っかかるのは、自分とは違う他種について、『へん』とか『ざんねん』という言葉を使って表現するのはどうなのだろう。『ユニーク』『個性的』だと言葉が難しすぎるからそうなるのだろうか。で

それにしても『へん』『ざんねん』は否定的だし、人間の中でも一部の人から見た主観の度合いが高い。主観の度合いが高ければ読む側としては押し付けられる感じを受ける。一見肯定的な『おもしろ』がそうであるように。

 

その言葉を借りて『へん』で『ざんねん』な動物を選べと言われたら、先ず僕が出すのは『ヒト』でしょう。

二足歩行で体毛が少なく、髪の毛が長い。成長するとへんなとこに毛が生えて、道具を使ってへんな行動ばかりする。その生態は極めてへんで、1匹ではざんねんなほど弱いし、集まってもざんねんな結果ばかり生む。

 

『ふしぎ』はあまり僕にとっては拒否感がない。それは多分視点の提供であって、物の見え方(自分のものとは違うその人の主観)を押し付けられる感じが少ないからだろう。

 

『へん』『ざんねん』を僕が気に入らないのは、他者で他種のいきものを勝手な視点で勝手に差別的に見ている大人の感覚を、そういった感覚を持つ前の子供に植え付ける可能性がある気がするからだと思う。

そう在るべくしてそう在るいきものを、ある人の勝手な価値観で『へん』だから、『ざんねん』だからとレッテルを貼って、それを面白おかしく子供向けの本として提供している。

自分とは違うものを『へん』、自分の基準に満たないものを『ざんねん』とレッテルを貼る行為を小学生に植え付けるのはあまりよろしいことではないと思う。子供が本から知識だけを面白おかしく受け取ると思っているのなら、それは子供の学習能力を軽視しているとも言えると思う。そういう意味で、こういう言葉のニュアンスはもう少し考えた方がいいのではないかなと思う。その方が売れるのはわかるけど。

 

僕の勝手な経験論では、こういった『おもしろい』を前面に出す押しつけがましい本を好む子は、同調を好むがゆえに他人の心を知らぬ間に踏み躙ってしまう子が多かった。

よく言えば他人の価値観、主観に違和感を感じず同調できる素直で純粋な子なのだけど。

そういう子が主たるターゲット層になるのなら、なおさら言葉のニュアンスや他種・他種に対する態度を考えた方がいいと思う。

 

『へん』『ざんねん』という感覚を他者に対して覚えるばかりでなく、主観がないまま集団としてレッテルを共有し、自分がなぜ相手を蔑んでいるのか気にも留めずに批判するような大人が多い。こういった本を書いているのもそういった部分を持った人たちなのだと思う。

人の性格はどうでもいいのだけど、その態度は人を傷つける場合が多い。

 

いずれそれを読んだ子供がそうなるかならないかはわからないけど、素直で純粋な子をレッテル貼りで食い物にするのは、負の連鎖を生むばかりでなく趣味が悪いんじゃないかなと天邪鬼系の子供だった僕は思うのでした。

 

 

*ヒトの悪口を書いた部分で、僕は自分の悪口ならいくらでも言えることを思い出した。他者に対してそれが難しいのと同じに、他種に対しては出てこない悪口が自種に対してはすらすら、原稿用紙数枚は書けそうな感じで出てきた。面白い。