感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

老後、年金の不安 死生観

老後の不安を抱えている人が多く、不安を様々なメディアが煽っている。でも僕にはあまり実感が湧かない。

 

子供の教育や養育には現状お金が掛かるし不安はあるけれど、老後はあまり気にならない。年金の必要性もちょっと疑問に思う。

 

お金が掛かるのが前提なのは、結局システムの都合上自力で生きなきゃいけないからだろう。住むにも電気にもお金がかかるし、食べるにもお金がかかる。病気になったらもっとお金がかかる。面倒を見てもらうにもお金がかかる。でも若い頃ほど働けなくなる。共同体ではなく個人、小さな家族レベルで生きなければいけない。

 

前提が自力で生きることだし、前提が生きるにはお金がかかるから不安になるのだと思う。

多分その前提が合わないので僕は不安な実感がないのだろう。

 

まず生きることにそんなにお金が必要だろうか。生きるだけなら生き方や場所を選べばそうお金が必要でもないと思う。

日本は冬がある分生きるには策が必要だ。計画的に食料を備蓄し、計画的に消費する必要がある。

でもそれは祖先が伝統として生活を残しているので、それを学んでおけば活用できる。

乾物、漬物、色々なものが冬の前に用意できる。米がなければどんぐりからでんぷんを取るなり出来るのだし、冬獲れる魚もいる。雑草は知っていれば種によって野菜に見える。

 

最低限必要なのはシェルター(家)と火と計画性と労働力と道具だ。

シェルターはどうとでもなる。見方を変えれば日本中シェルターだらけだ。火は楽に起こすなら道具が必要になるが、大変でも起こす方法を弁えておけばいい。

道具は作るなり買うなりして必要性に応じて備えるしかない。問題は労働力。個人でできることは限られ、人数が少ないほど過酷になる。でもこれも必要な状況になれば仲間は出来るだろう。

 

我々は時間軸的に見れば歴史の延長線上にいて、色んな伝統や理屈を学習した分、それらを活用して独自の方法を編み出すことも出来るだろう。

 

ということで生きるだけなら生き方や場所を選べば僕はお金はそんなに必要とも思えない。お金は必要に応じて持って使えばいい。戦中戦後はお金があっても飢えた人がいた。通貨には有利もあれば不利もある。財を通貨の形で持つことも、不利を有利にすることになるかも知れないし、場合によっては逆にもなり得るだろう。

 

年金や老後のための貯蓄というのはある意味ピーキーな選択だと思う。そこまで生きてそこまで社会が安定しているという前提のもと、活動的な年齢の時間を通貨の形で貯蓄に変える。そのお金を活用できる保証がないリタイヤ後の生活のために。

ピーキーに見えるけどそれを選択するもしないも自由だ。アリにもキリギリスにも尊厳がある。

 

スキルや知識も同じ。色んな人が押し付けてくる必要なスキルや知識も、『現状』という限られた状況でしか有利に働かないものが多い。応用できるなら別だが、そこには個人の応用力も関わってくる。それよりは仲間を持つ方が早い。

 

これじゃサバイバルだって言われると思うが、全ての土台にこれを持っておけば対応出来る幅が出来ると思う。

そもそも僕は生きることはサバイバルだと思っている。システムに生かされて、飼い殺される現状にばかり生きれば、システムが急変した時に対応できない。システムは現状であるのだから、自分自身がどう将来を見て、その現状を生きるか決めればいいと思う。僕はその中で生きるのではなく、自分なりに適応して生きると考えた方が合う。

それなりに恵まれていても生かされる世界は真っ暗だった。だから自然な世界に自然に生きたい。

 

この辺は生きるという根本の価値観も関わってくるのだと思う。

僕は浮浪者になっても自分である限り生きていけると思う。野垂れ死を悪く言う人がいるが、それもその人が生きる為に抗った結果なのだから、尊敬されるべきだと思う。

そんな価値観もあって、いかに死に抗うかが重要であって、その結果である死は最善を尽くした結果。それが完全に避けれないものである以上、死は怠慢でも敗北でもなく、単なる結果として扱われるべきだと思う。冬を越せなければそれはそれで仕方ないと思うし、それは自然な死であると思う。

老人になって孤独なら生存率が下がるのは当たり前。食料すら調達できなくなるのも当たり前。そういうものだと思うしかない。

仲間や家族がいれば生かしてもらえるかも知れないが、それも役割として活かしてもらうから。役割が果たせなくなり、扶養価値が維持労力に見合わなくなれば姥捨山に捨てられても集団として自然なことだろう。

 

年金やら何やらで1人生き延びるのも、家族にただ生かされるのも、それはそれでその人の生存戦略なのかも知れない。でもそれが集団としての価値観となるのは不健全ではないかなぁと思う。

不自然な価値観に邪魔され個人として自然に死ぬことができないから尊厳死なんてものを考えなくてはならなくなるのかも知れない。生かされる時点でサバイバルは終わっているのだから、当然と言えば当然だろう。

 

だから僕は生き残ることができなくなった時点で死ぬことは自然だと思うので、冬を越せなければそれまでだと思う。野垂れ死もそこには尊厳がある。

「こうはなりたくないな」と思うのは勝手だが、その人個人の抗いを鑑みずに蔑むのはおかしいと思う。「そうはなりたくない」。

 

生き方も同じ。見る未来も生き方も人それぞれ。現代の価値観だけが全てではない。

僕のような考え方は、現状の中でとある最善を生きる人達には頭がおかしいと笑われる。でも現状が激変すればその人達は笑えなくなるどころか泣くだろう。僕が生き生きできる時代になるかも知れない。

もしそうなった時、僕はその人たちを見て手を差し伸べるられかどうかはわからない。

でも少なくとも、彼らを見て笑うようにはならないようにしたい。それも彼らが最善を尽くした結果なのだろうから。

 

みんな違ってみんな良い。だからこそ種として、集団として、状況に変化があっても命が繋げる。

みんな同じはみんな死ぬかも知れない。

適者生存が事実であっても適者だけが正しい訳ではない。非適者は見る位置によっては犠牲であって敗者ではない。

 

そういう意味では僕は種、集団のためにこういう生き方をしているのかも知れないよ?

だから価値観の押し付けはやめようね!