感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

砂漠に行ってみたい 生と無機質の認識

砂漠とはどういう所なのだろう。

 

イメージでは寒暖の差が激しく、もの凄く乾燥していて、日よけになるものも風や舞う砂を除けるものもなく、生き物もほとんどいなくて、そして広大で視界を遮るものがない。思い浮かべてみても知識として知っている世界や見たことのある写真のような映像だけだ。

僕が落ち着いて自然と一体化したような気持になれる熱帯雨林とは真逆の性質のものに思う。

東京砂漠的なものは心の中で味わってきたが、それはまた孤独という部分ばかりに焦点を当てた想像の中の幻想でしかない気がする。

 

 

僕が魅かれる本には砂漠の描写が多い。

人は何を砂漠に見て、砂漠は何を人に見せるのだろう。その先に何が見えるのだろう。

 

お金はないのに行ってみたい場所だけは沢山ある。全然行けてないし現状では生きているうちに行ける気が全くしないのだけど。

そんな僕の中で、最近砂漠は突然、行ってみたいところリストの上位に食い込んだ。

僕の行ってみたいところリストの中に僕の基準で過酷で危険なところは一つもなかった。日本の関東平野部レベルの冬の乾燥や寒さに音を上げ、湿潤な場所に居るのに一日に水分を2L以上摂る僕にとって、砂漠は想像もつかないほど過酷なところだろう。ましてや文化に触れることもできないし、生き物もあまりいない。

でも、砂漠に身を置くことよって物事の見え方が変化することは何となく想像ができる。

 

熱帯雨林では、目に映るもの、聞こえる音、触れるもの、吸う空気まで、すべてが沢山の命やその痕跡に溢れている。安心して身を委ねることが出来る。虫に刺されることも、それが当たり前になれば生の実感に変わった。(ここだけ読むと危ない人みたい)

始めの頃、熱帯雨林で動物に会うことは容易ではないと思った。声や飛び移る音が聞こえても、匂いが漂ってきても、足跡などの痕跡が見えても、幾重にも茂る枝葉に隠れ、そこに居るはずの動物の姿を目視することは難しい。尻尾は見えてもその動物には会えなかった。でも今はもう色んな動物に会えるようになった。そこに身を置いていれば、僕にとっての『会う』という条件自体が緩和されていった。会うこと自体には尻尾を見る必要すらない。会うの最低条件が『種の同定ではない』し、会うという現象がその対象と『目が合うことでもない』のだ。互いに気配を察しているのだから僕とその何かは会っている。

 

僕は小学生の頃から釣りが好きなので、海も僕にとっては生の予感で満ち溢れている。自然現象はすべて連鎖しているので、海面を見ればその海中、そこに居る生物が見えてくる。

10年ちょっと前、毎週砂浜から弓角で回遊魚を狙っていた。その中にはベテランの漁師さんも趣味で来ていて、彼は僕やほとんどの人たちには見えない回遊魚の兆候を的確に捉えることが出来た。僕が魚の気配を感じられるのはせいぜい、海面に『もじり』や『なぶら』という、直接的な魚の兆候が見えた時ぐらいだった。なぜ彼がそれらの兆候もなしに海中のことが分かったのかは本人に聞いていないのでわからないが、今は僕にも見えるようになってきた。場所が変わればすぐに見えるようにはならないけれど。ただ単に視力の問題ではなかった。

 

より単純なのはニッパヤシ林の貝採りだろう。こちらの先住民たちは次から次へ拾っていく。僕ははじめ、泥から少し出ている貝しか見えなかった。彼らには泥の中の貝が見えていた。貝を探していては貝は見えない。

人はその環境に身を置いていれば、自然と学んでいくものだった。僕は今は泥の中の貝が見える。彼らほどではないけれど。

 

長々と書いたのは僕の自然についての認識や知覚の変化。

 

では砂漠に行くとどうなるのだろう。それは僕には分からない。でも一つ思っているのは、生物の気配がほとんどない過酷な自然環境に身を置く(街は生物の気配がないのではなくゾンビの気配がある)ことは、より生の気配に敏感になるのかなということ。

僕が期待しているのは、その先に無機質から生を感じられるようになるかもしれないということ。そして更にその先に、僕の中に根強い、生と無機質の間にある認識の壁を打ち破れるかもしれないということだ。

動物の痕跡も、泥の中の貝も、見方によっては有機質から感じ取っているに過ぎない。イメージとして近いのは海面と海中の関係だろうか。

 

生と無機質の間にある認識の壁、それが打ち破れれば、生の見え方や無機質の見え方だけでなく、僕自身の在り方や生死の認識も変わるような気がする。

 

 

でもそれはツアーで体験するような期間では無理だろうなぁと思う。お金や家族に縛られているという言い訳が思いつく辺り、まだまだその時ではないのだと思う。その時は来るのかな?

 

 

最後に誤解の無いように書いておきます。僕は昨日の哲学傾向テストでは精神主義的な傾向が高いことになっていたけど、スピリチュアルな感覚は今のところ持っていません。ただ、世の中が物質的すぎる、五感に頼りすぎることに疑問があるだけです。あのテストでは物質主義の反対軸が精神主義になっていたのでそうなっただけだと思う。こういう傾向テストではよくある罠ですね。

そもそも物質主義と精神主義は相反するのだろうか。調べたことがないのでそれすらわからない。

 

スピリチュアルな世界が有るなら有るのだろうし、無いなら無いのだろうし、人によってなら人によってなのだと思うし、集団によってなら集団によってなのだと思う。

ただ、個人として僕の見方が今どうで、これからどう変わるのか、死ぬまでにどう変わるのか、その先が僕にとっては有るのか無いのか、その認識がどう変わるのかに興味があるだけなのです。今は「何となくそういうのもあってもいいかなぁ」って感じてますが、見える(感じる)=あるでもないし、見えない(感じない)=ないでもないし、「結局証明できないものを追っても仕方ない」とも思ってます。今までがそうだったように、なるようになるんだと思う。

捉え方や感じ方、考え方が変わるのは僕の中では自然なのだし、僕が分かるのは僕の経験を通した認識でしかないのだから。