感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

虹と色 プライドマンス グラデーション

虹が七色だと誰が決めたのだろう。

七色だろうと十色だろうと二十色だろうと虹は虹なのに。

僕は虹のグラデーションが好き。曖昧な色の移り変わり。

色の名前を知らないだけで、いくらでも色を見ることが出来る。

でもそのグラデーションに見る自然な美しさは、虹が七色だと信じて見ている人には見えていないのかもしれない。

 

それは勿体ないことだと思う。

名前があることが全てではない。そんな誰かが作った概念は一度すべて捨ててしまえばいいと思う。

自分なりに見た後に、自分なりに感じた後に、人の見え方を知ればいい。

虹だけではなく、どんなものでも同じ。ほとんどの事物は相対的でグラデーションだと思う。だからこそ人が勝手に作った概念に惑わされるのは勿体ない。

 

 

虹と言えば、6月はプライドマンスという事で性認識、性的指向に関する権利を訴えるイベントが各地で起きている。

それはとても良いこと、前進だと思う。

民主主義において権利は主張し、勝ち取るものだという前提は日本人の僕たちこそが常に胸に留めておかなければならないと思う。

マイノリティが権利を主張することを「傲慢だ」「自分達だけ苦しんでいると思っているのか」というロジックで封じようとする向きがあるが、彼らはそもそも権利を持っていないから権利を得るため、守るため、認識されるために主張という形で行動を起こさなければならない。認める認めないはその人の自由であっても、その前提が抜けてしまうのは少々乱暴だと思う。

そんな姿勢だと回り回って自分たちも主張することが出来なくなってしまう。

 

 

性認識・性的指向に関して様々なグループが出来て、様々な旗の下にそれぞれを認めましょうという動きになっている。自分の所属する旗は居場所として用意されているようだ。それはそれで優しさの表れなのだろう。

虹、色というのは重要なテーマだ。旗一つ一つのデザインはしっかりと練られていて、色一つ一つに意味を与えながら作られている。

でも僕が彼らに惹かれるのは、旗が多彩だからではなく、グラデーションの美しさを知っているから。

 

彼らの作る旗は全て境界がはっきりし過ぎているように思う。その方が居場所として、盾としての役割はより発揮するだろうが、本来的な多様性の認識、許容という面では遠のいてしまわないかなと若干僕は気になっている。

それぞれの色を主張することは必要なことだけれど、そればかりが前面に出過ぎている気もしなくもない。それでは繰り返してしまう気がする。

ここまで存在を勝ち取ってきたのだから(欧米では)、この先の動きは少し方向性を変えてもいいのではないかなぁと思う。

抑圧されてきた分、自分の色にプライドを持ち、パレードを催すことに何ら間違いはないけれど、そろそろ視野を全体に戻す時だと思う。 

 

はっきりした色が境界を作っていたら棲み分けにしかならない。その境界が崩れた時には変色が起きる。

境界が曖昧なグラデーションだからこそ多様性のハーモニーが生まれるのだと思う。

 

彼ら自身が理解するように、色が重要なのではなく、存在の多様さ、僕たち自身がグラデーションの中に在ることを前面に説いてくれればもっと気持ちよく応援できる気がする。

 

 

名前のついた色にばかり囚われると、虹本来の自然な美しさが見えなくなってしまう。

虹が虹で在ること、そこに意味を求めても求めなくても、虹は虹だから。それが自然。