感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

ADHDセルフチェックテスト 『レッテル』『線引き』『盾』

ふと思い立ってADHDセルフチェックテストをやってみた。

 

いくつかやってみたけど、結果はどれも高得点をマーク!「専門医に診断を受けましょう」だって。流石USA、そのまま近くの推奨専門医を紹介してくれるサービスに繋がるのもある。

僕は多動性はあまりないので不注意優位型になるのでしょう。小さい頃から注意力散漫だと言われて育ったからね。

 

ただこれは分かりきっていた結果。やるまでもなくその特性は自覚してるし、そもそもADHDを障害だとは思っていないのでやる意味も感じなかった。

やってみた感想は正直ちょっと嬉しかった。僕からすれば意味の見出せない作業に集中できる人は尊敬に値すると同時に、その人達と同じ枠には当て嵌められたくはなかったから。違うのだから当たり前。

 

 

16タイプ診断とも呼ばれるMBTIに当て嵌めれば、僕のタイプはADHD(ADD)そのものだとも言われる。それぐらいADHDは性格型の特性に相関する。

僕が枠が嫌いでもMBTIが嫌いではないのは、各特性を傾向で捉えるところ、そして一つの特性を有利な面と不利な面の両面で捉えるから。ただ、全ての人を16分割しただけではやはりレッテルやバイアスに繋がると思うし、僕はそのタイプにも囚われたくはないので、ツールに留めているつもり。自分、そして人の多様性に触れるには良いツールです。

 

 

現実にADHDと診断される特性は、ヒトとして自然な部族社会では必要なタイプでも、現代社会という枠の中で人間の社会生活をするにあたってはとても不利な特性。

現代社会ではすべてが構造化されていて、その中で与えられた役割を担って生きなければいけないのだから、俗に言う地に足がついていて正確に作業ができることが優先される。

僕が仲良くなれる人は大体この特性を持っているので、必然的にフリーターとして社会から距離を取って生きたり、僕のように日本を離れたり、ADHDとして生き辛さを抱えながら生きていたりする人ばかりとなる。

でも彼らはどの人も素晴らしい人たち。とても鋭い感性・深い世界を持っている。そういう人たちが生きづらい社会が嫌い。

 

ADHDが『Fictitious Disease』かという議論が起きるが、これは不毛だと思う。ただ、発達障害や精神病は多くがそうだけど、やはり病や障害という言葉は引っかかる。

重要なのは作られた病・障害(個性)か実際の病・障害かではなく、その生き辛さの方だと思う。

そういう特性を持った人が一定割合居て、その人達がある種の社会での社会活動に困難さを持っている。事実はここまでで、これから先は解釈の問題だと思う。

個性だけど生き辛いのは事実で、それが障害とされるくらい許容範囲の狭い社会の枠の中では、障害と見ることもできる。

 

僕が今いるこの国ではADHDという概念がまだ入ってきていない。多分入ってきてはいるけど、社会の在り方が全然違うので認知されないだろう。日本人的に見れば信じられないような人も社会生活できているのだから、その概念は必要がない。自閉症に関してはたまに聞くようになってきたが、どうなるだろうか。

 

 

例えば、僕は以前LD、ADHD、自閉症(自閉症は幅が広く、ここでは単なる例なので深く考えないでください)という、世間で言えば発達障害児の子たちが社会生活の中での不自由を少なくするよう支援するNPOでボランティアをしていた。基本的には外出の引率手伝い。見通しを立てて混乱を少なく生活できるよう、外出を通して学ぶ感じになる。

癖があると感じることもあるが、どの子も素晴らしい子達だった。彼らが抱える困難もそれぞれ幅があるのだけど、その困難の多くは社会生活の中での話。もちろん社会で生きる以上、それはある程度克服しなければ本人にとっても辛いもの。しかし裏返せば、社会の個性を含めた人としての許容範囲が広ければ、僕に言わせれば健常者のレベルだった。

学校の通常クラスでは面倒を見きれない。それは事実だろう。でもそれは彼らが発達障害児だからなのか、それとも現在の学校システムの限界のせいなのか。そこは社会の在り方次第だと思う。10人クラスを2人の担任で見るのであれば、教育の在り方次第ではそういった子の1人2人は許容できるだろう。

ただその為には学校教育の後の社会における許容範囲も広くなくてはならない。それは現在の日本では非現実的と言える。

そういった意味で外から見れば『レッテル』という側面、『線引き』という側面、そして彼ら自身から見た『シールド』という側面も、状況に応じてそれぞれ考慮しなければならないと思う。マイノリティの問題はどれもそうで、多角的に見ないと危ないと思う。

 

 

僕は自分の性格上、そして自分の立場上、多くの発達障害や精神障害と同じくADHDを障害だとは思わない。発達障害は多くの場合個性であって不寛容な社会の問題だし、精神障害はその人の置かれている状態とその人自身の間にある問題だと思っている。

 

それは僕自身が同じ特性を持っていて、その状況に置かれてきて、そして現在僕はその不寛容な社会の内側に居ないから言えることでもある。

 

ADHDに関して言えば、個性であって障害ではないという立場の人は多いが、概念が一般的になった現状、それを一概に、大声で言うのはやはり危ういと思う。

ADHDは社会という枠の中で生きる為に、彼らが心を守るために活用しているもう一つの枠という側面があると思う。自分自身を守るため、許すために必要とされている側面が見える。実際にその枠の中で傷つきながらも生きている人は、ADHDというタグを『シールド』として活用しなければ一人の人として生きていくのが難しい。それはそれでその状況の中では賞賛すべき生存術だと思う。社会が変わらない中でいきなり「シールドを捨てろ」、「君たちが頼る枠は存在しない」と言うのはあまりにも酷。神経症や精神障害と定義される人相手にもやってはいけないことだと思う。

 

ただ、そのADHDという枠が彼ら自身の個性を『障害』と定義する以上、その枠は個の輝きを失わせる呪縛でもある。そこに囚われ過ぎるのはその人が本当の自分を見つけ、輝くことを邪魔する足枷になってしまう。変われない自分自身を障害として騙しながら生きるのはやはり辛いことだと思う。

 

とても難しい。

 

全ては生きた状況の中に発生している問題。

アドバイスする側ならば、そういったフィルターを一度外して、その人自身のその現状を見極めてアドバイスするしかないだろう。しかしアドバイスする側は常に自分の言葉の重さ、言葉の責任を頭に入れておかなければいけない。

 

自分自身がそうであるなら、やはり元気のある時に本当に自分の問題なのか、社会との在り方の問題なのか、であるならばどうやって自分自身として社会と付き合っていけるのか。自分を責める前に自分自身を知り、自分への理解を深めてみて欲しいです。

生き辛さは事実なのだから、シールドは状況次第で活用すればいい。最終的に捨てられるのならば一番だけど、それはすぐに考える必要もない。相対的に考えればいいと思う。ただ、もし服薬している方は薬は気を付けて欲しいです。

僕はPTSDと診断され苦しんでいた時期は、様々な薬と付き合い、というか薬に飲まれていた時期もありました。それも必要だったとは思っているけど、薬を抜くのは本当に苦労しました。そして当時僕の支えになってくれた大切な人はODで帰ってこなくなってしまった。辛さから解放されたのかわからないけど、やっぱり残された僕は悲しいしやるせないし、その人を追い込んだ世間が許せない。

薬は状況次第で必要でもそれはいつか捨てるつもりで、どうか飲まれないでください。残酷な世界に身を置かず、残酷な世界を見ずとも生きる方法はどこかにあるはずですから。

 

 

色々書いてしまいましたが、何より非難すべきはこういったただ生きようとしている人々を『障害』『病』と定義して、認めた顔をしながら排斥し、裏返せば光る部分である特性や心の叫びを薬で押さえつけてまで同じ色の歯車にすることを是とする社会だと思います。本当に許せない。ADHD?どっちが歯車病だよ。と言いたくなってしまうけど、それを言えば同じ穴の狢。彼らも彼らなりに頑張って生きていて被害者なのでしょう。でも許せないものは許せないなぁ。

何故か久々に『リベリオン』が観たくなった。

 

 

すべて個人の感想と個人的な解釈なので、辛い中に居られる方はあまり深く考えないでください。違和感を感じていて元気な方はご自分の解釈を見つけてみるのもいいと思います。周りにそういう人が居る方はどうぞアクションはご慎重に。

 

あーあ、雨も止んだしお散歩行ってこよっと。