感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

死者へのコメント 村社会の行動原理

昨日義理の親戚がその元妻に刺殺されてしまった。義理な上に会ったことは2度くらいしかないので、可哀想だなぁとか、子供はどうするんだろうなぁぐらいしか感情も感想も湧かない。

その話はまぁ置いといて、誰かが死ぬと必ずfacebookでは、その死を知らせる投稿を複数人がして、ムスリムなら『Al Fatihah』、クリスチャンなら『RIP (Rest In Peace)』というコメントで埋まる。日本で言えば『ご冥福をお祈りします』だろうか。

 

この現象に何か違和感がある。これらの死者を偲ぶ言葉は誰に向かって言ってるのだろうか。死者や神に対してならそんなコメントを人の目に付くようにするのは不要だろう。心の中で祈ればいい。親族の喪失感に対する『お悔やみの言葉』なら親族に直接伝えればいい。

みんなに見えるように書かれるお祈りコメント、その多くは言葉が別の場所に向けられているように感じる。それはお祈りになるのだろうか。

 

苦難の下に居る人を紹介する文章に書かれる『Amen』というコメント(こっちではかなりメジャー)もそういうものを感じる。結局当事者も神もその人にとってただの他人だからそういうコメントが書けるのではないだろうか。

お祈りやら神やら、そういったものと無縁の僕に言われるのは心外だろうけど。

 

SNS、特に実名で実際の友人と繋がるfacebookは現実の延長線上にある。結局のところそういったコメントをする心理には、『社会に自分の態度を示す』という意味が隠れている気がする。社会社会と言うが、人間の心が今も属しているのはTribeの延長だと思っている。

村社会というのは『見られている』ことが行動原理になっている場合が多いと思う。こっちの村に住んでいても、その『見られている』というのは重圧で息苦しい。多くの場合結婚式や法事などの行事に出るのは、結局のところ祝うためでも死者を弔うためでもなく、親戚に見られているから。様々な行動の目的は無意識に『見られているから』にすり替わる。だから口では色々と綺麗な理由を並べるけど、結局は『見せるため』の行動となる。それは村社会で生きる為には重要なことだ。でも僕は重要と分かっていてもそれだけでは意味を見出せない。そんな中出席するのはすごく苦痛。それを常識として割り切るのが大人なのはわかるけど、そんな気持ちで出席するのはかえって悪い気がしてしまう。

そして「そんなことよりガーデニングの方が大事なんですが…」と言いたくなる。けど我慢する。

 

そんなこんなで村社会では様々なことが『見せること』、『社会に自分の態度を示すこと』に目的が移ってしまうという事を感じていた。もちろんすべての人がそうとは限らないけど。

現実の社会やSNS上でも人は多分、どこかで村社会の中に生きているのだと思う。

 

『Al Fatihahコメント』の中にある僕のもう一つの嫌悪感の源は、僕が死んだら恐らく同じように複数人によって僕の死という事実を晒されて、その投稿に心の伴ってないお偲びコメントがいっぱいつくんだろうなぁという事。

神に対して僕の行く末を祈ってくれるのはその人とその人の信じる神の関係だから良しとしても、僕と神はそういう関係にないような気がする。

 

死ぬ時ぐらい静かに消えてゆきたい。葬式もいらない。そういう気持ちがあるからだろう。それは結局、そんなに繋がりのない人達に死を知ってもらう意味も、僕は既に死体になってるのにわざわざ葬式に来てもらう意味も感じないから。葬式にもお金がかかるし。本当に心で通じ合った数人がたまーに思い出して偲んでくれればそれでいいと思う。

でも世間の家族は、葬式を行うという行動で家族として(Tribeの中での)常識を態度で示し、親戚知人はそれに出席するという行動でその立場として(Tribeの中での)常識を態度で示す。そこからずれて(自分の属するTribeに)非常識と思われることが問題であって、死体となった僕は既に関係ないのかもしれない。それじゃ僕の死体はただの、Tribeの常識を強化する為の道具でしかないじゃないか。もう死んでるのだからどうでもいいのだけれど、でもやっぱり嫌だな。

 

我ながらひねくれてるなぁとは思うけど、きっと何かの反動と生まれ持った何かが合わさったものなのでしょう。大目に見てやってください。