感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

ドリアンが臭いというレッテル 多様性と多様性の出逢いの可能性

夜のさわやかな風にドリアンの香りが乗ってくる。その度にふと、内側から湧き上がってくる怒りと悲しさの入り混じったような感情があります。感情とは面白いもので、匂いを認識して考える前に湧き上がってきてる。

 

僕はドリアンが大好きです。ドリアン依存症と言っていいくらい大好き。結構な値段がするけど、匂いを嗅ぐと食べたくなってしまう。

日本の方を案内すると、決まってドリアンはいい(拒否)という人が何人か居る。そういう人たちに限ってドリアンを食べたことがない。ではなぜ拒否するのかと言えば、臭いという先入観。それを聞く度に怒りと悲しさでいっぱいになる。「うんこの匂いがするんでしょう?」とか意味の分からないことを言い出す人までいる。

 

『ドリアンが臭い』というのはいったい誰が日本で吹聴したのだろう。誤解によって貼られたレッテルの一人歩きでしかない。

 

ドリアンは匂いは強烈。でも決して嫌な臭いではない。南国のフルーティーな匂い。中には確かに人によって不快と感じる匂いのものもある。でもそれは少数。品種・鮮度も関わってくる。

 

僕がドリアンが好きなのは美味しいからだけではない。品種によって、育てられた場所によって、木によって、そして同じ木から採れた実でもそれぞれ匂い、舌触り、脂分、コク、甘み、苦み、風味が違ってくる。個性が本当に豊かなのだ。恐らくは農業技術が発展し始めたばかりで品種があまり固定されておらず、決まった農法もそこまで普及しておらず、収穫・輸送にもムラがあるからというのもあるだろう。でもそれは僕の感情にとって関係がない。美味しくて東南アジアでしか食べられない、個性豊かで素晴らしい子たちだから、それを試してもらおうと思ってる。にもかかわらず先入観で臭いと決めつけた上に食べようとしない人がいる。食べてもなお先入観を覆せない人もいるけど。

 

これも最近まで気づかなかったのだけど、自分の中では色んな事がぐちゃぐちゃに繋がっていて、それで怒りや悲しみを感じていた。ただ僕が好きなドリアンを馬鹿にされたから怒ってるわけでは決してない。

 

臭いという認識はそう聞いてきたのだから仕方がないし、百歩譲って許せる。でも現物があるのに試そうともしないのはどうなのか。現物を自分で確かめもせずにレッテルの方を信じるの?それがレッテルがレッテルとしてこの世に存在し続ける理由でしょ。

何故自分で確かめるより、人の作った訳の分からない常識を信じるのだろう。トマトが体にいいとテレビで放送するとトマトがなくなったり、トレンドと聞いた服が素敵に見えるようになったり、そこまでは違和感は感じてもまだ許せる。それはその人の在り方なのだろう。

でもオタクが陰湿だとか、鬱の人が弱いだとか、発達障害だから失敗をし易いとか、ゲイは汚いとか、どうして中身を見もしないで一元的に否定できるの?誰が言い出したのかも、訳さえも分からないレッテルだけ見て集団ごと否定するのは本当に許せない。そのレッテルを背負ってそこにアイデンティティを見出し、更に歪んでしまう人も沢山いるのが本当に辛い。

 

ドリアンは一部不快な匂いのものがあると書いたけど、その不快さも気にならなくなるくらい美味しいものもある。そしてその感じ方は更に食べる人によって変わってくる。でもその好みを否定する人はドリアン愛好家ではないと思う。ドリアンと人の関係は1対1のものだ。他人の入る隙はない。

あと、高級なドリアンは高級なので確かにおいしいのも多いけど、ドリアン一つ一つの真価は価格とは別物。価格やブランドに惑わされ、ニュートラルな自分としてドリアン一つ一つとの関係を味わえないのもドリアン愛好家として認められないと思う。

ドリアンは一つ一つ尊重すべきだ。それが自分の好みに合わなくても他の人の好みには合うかもしれない。自分に合わないドリアンだからと見下すのは違うと思う。

 

人とドリアンの数だけ出逢いがある。それが多様性と多様性の出会いであって、その可能性は無限大。その可能性を自分で試しもせずにどこかで聞いたレッテルだけで否定するの?自分がドリアンより偉いと思ってるの?少なくともドリアンは最初から人との出会いを拒んではいない。人との関係の中で傷んでしまうだけだ。それなのにそんなドリアンをイメージだけで否定できるの?

 

人にはそれぞれ匂い、舌触り、脂分、コク、甘み、苦み、風味等の好みがある。それを一つの社会とすれば、ドリアンは多様な中の一つの個性、一人の人としてみることが出来ると思う。

僕の中での理想は、多様な社会と多様な人から生まれる無限の可能性にあるのだろう。だからこのレッテル貼りだらけの現状が許せない。

 

もし人々がこのままドリアンを一部の人の味覚に合わせた品種でばかり選り好みするようになれば、価値観は固定化され枠ができ、常識によって弾かれるドリアンは増えてしまう。枠の中ではドリアンは品種によって価値に差が出来てしまう。個性は関係ない。
やがて高く売れる同じ品種のドリアンばかりを作る農場ばかりになるだろう。そうなれば市場には同じドリアンばかりが溢れ、ますます価値はブランドに移り変わり枠は固定される。

勝ちの亡くなったドリアンは切り倒され、新しく農場で管理されるドリアンは同じ接ぎ木苗ばかりになる。生まれ持った根っこではなく、育っていくのは幼い時に接ぎ木された自分とは違う何かとなり、自分自身を見失い不全を起こして死んでしまう木も出てくる。そしてモノカルチャーは病害に対する耐性も奪ってしまい、長期的には果実の収量も落ちることになる。本当にドリアンたちを愛していた愛好家は、ドリアンと人の在り方の変化に絶望することになる。

それは望んではいけない未来だろう。

 

『みんな違ってみんな良い』を表面的なただの言葉の伝搬だけで終わらせないで欲しい。否定され続ければ人は傷つくし、放置されたドリアンも傷み腐ってしまう。それでも傷み腐ってしまったのは、ドリアンの落ち度だと言うの?

ドリアンも悲しいんだよ?なんて言うと胡散臭くなるけど、回り回ってその態度が人を傷つけているかもしれないことは考慮して欲しいのです。こんな意味の分からない文章を最後まで読んでくれる方に、そういう人はあまりいないだろうけど。

 

 

感情を文章に発散した中で一番スッキリしたかもしれない。

勿論僕はドリアン偏愛者なので、多少(?)色眼鏡でドリアンを見ているところはあると思う。でも怒りに任せた殴り書きにしては僕の心を映し出していて、そこまで的は外れていないと思う。思いたい。ドリアン食べたい。