色に魅せられ、世の中に影を見て打ちひしがれ、野生的な感性に憧れ、人と人の繋がりに希望を見いだし、言葉の意味の魅力に惹かれ、宇宙に自分の存在意義を探し、光に導かれる。
ノルウェーのシンガー・ソングライターのAurora (Aurora Aksnes)の作る歌は、僕が自分の心の中に見たことのある情景を強烈に蘇らせる。彼女の歌に描かれる情景は紛れもなく彼女が見たものであり、感じたことであり、そして彼女自身の表現だ。彼女の歌は深い階層の感情による裏付けのある表現が多い。彼女の中で感じたことは彼女にとって事実で、僕の中で感じたことは僕の中で事実、それが内側でリンクするから現実として感じることが出来る。互いにとって作り物ではない時、物事は全ての枠を越えられる。
それを抜きにしても彼女の表現力は僕にとっては恐ろしいレベルで、同じ感覚で生きてきた僕の感情に踏み込んでくるばかりでなく、『飲み込まれる』と思う程だった。
ノルウェーという遠い異国の10歳以上年下の彼女が第二言語の英語で作った歌を、言葉も文化も人種も宗教も性別も違い、英語が大して得意でもない僕が聴いてそう感じるのだ。
同じ日本人でも何を言ってるのか意味不明な人たちばかりなのに、彼女の歌は考えるまでもなく理解できる。
恐らく彼女と僕はユングやMBTI等の性格分類的に言えば同じなのだろう*1。あまり枠に囚われるのは良くないと感じるので今まで書かなかったが、こういう経験は意識するようになって増えた。似た者同士だと、相手がアメリカ人でもアフリカ人でも文化の背景を気にせず(英語は使うが)直感的なコミュニケーションができる。
こういう経験をすると更に社会という枠の意義が自分の中では薄れてしまう。人種や言語や文化や宗教等の背景が違っても、『人』として自分の根底にある価値観が共有できる人達がいる。同じようなことを感じ、同じようなものを見て、同じような困難を抱えている。その事実は枠の外に意味があると働きかけてくる。歪められてきただけでいつもそうだった。
僕のような人間は日本社会では一歩間違えば(間違えなくても?)社会不適合者として脱落し、人生の前半戦で既に淘汰されかける。そんな人たちにとって世界中に同じような個性を持った人が居るという事実は、意味を重視する価値観を持ったこの種の人にとって非常に大きな心の支えになるはず。
それは一つのタイプに限ったことではなく、すべての個性に言えることだろう。意味があるから違いが存在してきた。ならばその違いが認められなくなったことがおかしい。ただそれだけのことだ。
Auroraが自分について語っているビデオを見て気づいたのは、彼女自身『違い』による困難を抱えていたことだ。ノルウェーはそういった点は大らかだと思っていたので少し驚いた。が、もしかしたらそうなるべくしてなっているのかもしれない、とも思った。彼女が自分を音楽で表現し、音楽に導かれるようにして世界に出ることが出来たのも、僕が今もこの異国の地で迷子になっているのも、何か意味があるのだろう。僕にとっては彼女の歌の世界に入ることが出来たのも一つの意味でもあるし、その意味はこの先何か別の意味に繋がって導かれている。そう思うことで闇の先に自分を導く光を見ることが出来るのだろうから。
AURORA - All Is Soft Inside (Audio)
*1 性格分類は社会を見る上では重要なツールではあるとは思う。その話はまたの機会にしようと思います。