感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

『僕がテレビ番組が苦手な理由』を掘り下げた理由

昨日は『僕がテレビ番組が苦手な理由』という事を掘り下げてみました。嫌なら見なければいいのに、何故それを掘り下げたのか書いてみます。

 

海外でこういった辺境暮らしをしていると、テレビ番組の制作担当者から取材依頼が来ます。テレビが嫌いな僕はいつもそれとなく理由をつけて断っていました。

でも今回は少し違っていました。先ず、前提として僕の中にあったものを掘り下げてみます。

僕が住んでいる村も少し危機的な状況にあることもあって、彼らを励ますことにも繋がるかなぁという漠然とした思いと、渡航中止勧告が出ているエリアだしどうせ延期になるだろうという考えがありました。

そして小学校時代唯一恩師と呼べる存在の先生が、以前お会いした時に僕が海外に住んでいることを伝えると、海外の日本人を紹介する番組が好きだと言っていたのです。

 

そして今回依頼してきた担当者さんはとても熱心で、伝えるまでもなくご自分で図書館に行って調べて来られて、僕との通話でのやり取りも合計で数時間になっています。そして彼なりのイメージ、番組制作への想いがとても伝わってきました。そして喋る雰囲気が落ち着いていて、上から目線でもなく、わざとらしく下からでもなく、誠実な人だなと感じてしまったのです。今まで連絡を取ってきた他の番組の人たちが総じて酷かったから余計に心を許してしまったのかもしれない。

 

結局断りづらくなってしまい、なあなあにしている内に決まってしまいました。断れなかった。自分の中では前述の3つの理由も意思決定に作用したと思いたいのだけど、結局のところただ断りづらくて断れなかっただけかもしれない。

 

テレビ嫌いの僕が、しかもその番組を一度も見たことがないのに決まってしまった。一時帰国の時に制作チームさんとお話をしに行きました。「うちの番組ご覧になったことありますか?」と聞かれ、堂々と「見たことないです」と言ってしまったのに少し動揺された(嘘はつけないでしょう)。ディレクターさんは「そうなんですね。~曜日の~時に放送してますので、ぜひ見てみてください」と僕に言いました。

でも結局日本に2か月いた間、その番組を見ることはなかった。見ると後悔するような気がした。いや、絶対しただろう。

 

僕にとっては自分の価値観の合わないテレビ番組というものに出るのは『客寄せパンダ』や『晒し者』になるのと同義なのです。この歳になったので恥ずかしいという感情は寧ろ少ないのだけれど、曲解された自分が面白おかしく伝えられるのだろうなぁと思うと今から憂鬱で仕方がない。

延期になればいいなぁと思っていたものの、担当者さんの熱意もあり、企画が通ってしまった。

仕方がないので腹を括って、連絡を取ってきた担当者さんを信じてみようと思っていたところ、複数の制作会社のチームがそれぞれ作っている番組という事で、「制作会議の結果別チームが担当になってしまいました。」とのこと…。今まで出演依頼を撥ね退け続けてきた僕の心が動いたのはあなたの熱意があったからなのに…。

運命とはいったい何なのか。

 

ともあれ、価値観の合わないテレビ番組に出ることになってしまったのは、その制作者さんの一人に心を開いてしまったから。その人の心、熱意は僕の価値観に合っていたという事なのでしょう。我ながら出ることになってしまったことに関する僕の中での理由に自分がない。でもそれもきっと、自分の心はそこを見ているという事なんだろうと思います。そうであればきっと主体性はある。となれば自分の選択と言い換えることも…できるのかな?

以前ならそういうことでいちいち落ち込んでいたけど、今は大分、自分自身も、選択も、成り行きや流れも受け入れられるようになってきた。それは大きいと思います。

 

この一回と自分に言い聞かせ、ピエロになるしかないのだろう。どのみちカメラの前で自分でいることなどできないだろうし、それなら変なキャラを演じて困らせてやろうかなとまで思っていたり。本当にそんなことするかは別として、そう思える余裕は大事にしていきたいなと思うのでした。