感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

僕、自分、個

僕にとって『僕』『自分』はかなり概念的な言葉です。

これは多分『そう感じる人』と『そうじゃない人』がはっきり分かれるところだと思います。どちらがいいかではなく、ただ僕は前者というだけ。そして個人的には幸せそうに見える後者が羨ましい。考えるまでもなく自分が自分なのだから。でも世の中のすべての人がそういう人間ではないということは心に留めておいて欲しいです。

 

僕は『個』という言葉が好きだ。個が個であることが前提であれば、集団の中で少なくとも自分の肉体的な境界は守れるからだろう。僕は個でいられれば自由だ。

しかし『個』、『僕』はどこからどこまでが『僕』で『個』なのか。見る場所によっても、ピントを合わせる位置によっても、捉える深度によっても変わってくる。

 

近年、人の思考は腸により支配されているレベルで大きな影響を受けていると言われるようになった。それ以前からホルモンについてはよく耳にした。意識=脳という前提は崩れてきている。

人は細胞、微生物やその他の物質の集合体だ。細胞が自分の一部で、微生物が住んでいるのだろうか?物質はモノを形作るだけなのだろうか。その考え方は僕には合わない。

細胞一つ一つが様々な器官を形作って僕を機能させてはいるが、僕と細胞のどちらが、細胞一つ一つのどれがどの程度主導権を握っているかはわからない。

 

微生物やウイルスはどうだろう。彼らは住んでいるだけなのだろうか。それとも僕は彼らに生かされているのだろうか。恐らく両方だろう。相互に作用して生きている。とするならば僕は彼らにとっては環境であり、彼らは主権を持っている。腸は工業団地のようなイメージがある。特定の条件で僕の人体という環境にとって害となる行動を起こすものが居るのは、人間の生活圏や生物の生息圏として見た環境と何ら変わりがない。

トキソプラズマが脳を操るのは、人が色々な意思の集合である社会や環境を操るのと、僕にとっては大差がない。

 

物質はどうだろう。細胞内物質にしても、エネルギーとなる有機物にしても、裏を返せば人はそれに依存している。裏返しに、僕の意思決定は既にその物質に支配されていると言ってもいいだろう。僕にとってはその方が理に適う。

『個』である『僕』はまた『環境』でもある。

 

この話題で避けて通れないのが『意識』や『心』だろう。意識は僕がコントロールしているように感じていて、既にコントロールされているものだ。では意識とは何だろう。

まず、大脳辺縁系や大脳新皮質や海馬がどうのというのは本を読んだりはしたけれど僕には合わなかった。ただ、うろ覚えだけど、ニューロンをつなぐシナプスは無数の銀河系の星の数を満たすという話は好き。

 

話が逸れてしまった。『意識』や『心』。僕が唯一、こういった話を共有できる大切な友達が、「人は魂の乗り物だと思う」という事を言っていた。僕は魂の概念がまだわからないのだが、感覚的にはとてもよく分かる。僕にとって、意識や行動の体験は二次的なものに感じる。

僕自身はよく、『オートパイロット』になるなぁと思っていた。『マインドワンダリング』という用語で説明されることを最近知ったが、意識が別のところに行ってしまうことを指す用語。でも意識が行ってしまう『別のところ』も僕の認識の中では今現在、事実とされていることと変わりがない。『他人と共有しているか』・『してないか』、大きくはその違いだろう。どちらも僕にとっては事実で、ただ別のところで、別の瞬間。

だからオートパイロットの最中も僕の心は意識を通して色々な瞬間を、色々な場面で、それそのものが変わりながら体験している。僕にとっては僕の意識は僕だけのものではない。内側で、恐らく外側でも色々な何かに影響を受け、共有している。

精神構造を『意識』『前意識』『無意識』に分ける概念があるが、僕には合わない。境界がはっきりしないし、内面に対して認識という所に意味を感じないからだと思う。無意識を認識できたらそれは無意識ではないのか。そうは思わない。それは認識の仕方の問題だと思う。ならば結局心は心だろう。

 

それよりも、『心』や『思考、頭』という概念の方が好きだ。それは、抑圧されてきた心がそう言っているのだと思う。この考え方なら、ストレス反応も現代社会で病気と言われる反応も、僕にとっては主観的に且つ客観的に、自然と照らし合わせて『環境の問題』だと理解することが出来る。

 

ではその『心』は何なのか。多分、概念では語れない、それ自体が繋がりの中で意志を持ち、命と似た形をしていて、人を衝き動かす力のあるものだろう。色々な繋がり、影響の中で存在するもの。今の僕にはそれで十分だ。

 

 

 『環境である僕』は自分を形作っている内側や、恐らく自分が構成要素の一つである外側にあるものにもよって、ぼんやりとしているが、はっきりとしている意識を持っている。心は僕にとっては内側から湧き出て外側から影響を受ける、繋がりの中の集合的な意思の様なものだ。身体とは一致しない。そして時に思考が邪魔をする。

自分に意識や心、思考があるのは結局、様々なものの集合である様々な環境、もっと大きなものでは地球環境やさらにそれを含む太陽系、天の川銀河、おとめ座銀河団、果てはユニバース、その更に外側にまで自我・又は集合意識がないとは言えない、つまり、恐らく『あるということ』の僕の中での主観的な十分条件的なものなのだと思う。だから僕は自分を包む、認識できる中で最大の環境である宇宙に僕が存在する意味を求めるのだろう。それは頭で考えるまでもなく、本来は感じていたことだった。歪められなければ。

 

『個としての僕』は一般的な概念の中での個性を保ち、身体や心を伴った僕だろう。

ただ、『個は環境である』という認識が強いから、多様な中の個を重視する傾向があるのかもしれない。ジャングルの中の沢山ある内の1本の木が1つの個であり、それが個としてジャングルを形作ると同時に、個として小さな生き物達の住む環境でもあるように。

 

他にも多分、色々な『僕』がいて、あるのだと思う。でも疲れたので今日はこれ以上考えない。

 

 

さて、金曜夜のテンションで暴走気味な連想ゲームでした。でも文字にするのはやはり楽しいと感じる。

これはただ単に今日の僕が思ったことを元に、今日の僕がだらだら考えたこと。ただそれだけです。それは明日には変わってるかもしれない。でも、『自分』の存在が曖昧な人は一度『自分なりの自分』考えてみると面白いかもしれません。

きっと色々なものの影響を受けているのだろうなぁと思うけど、結局自分の見て感じてきた主観が基準でした。また『普通の人』や『正しい人』に怒られそう。

 

僕は宗教や思想、スピリチュアルなこと、その他関連学問にはあまり関わったことがありません。強制や枠が嫌いだから。

でも恐らく、現在の価値観を掻い潜れば、同じように自分の内側から宇宙に繋がることはある種の価値観の中で生きる人間にとって当たり前のことなのではないかと思います。そう考えると、そういった思想なんかを学ぶことに意味を感じることもできるのかな。染まらない程度に、色を取り込む感覚で。

 

これ以上書くとそろそろ本当に危ない人だと思われそうなのでやめます。十分危ないと思われそうなことも書いた気がするけど、もう書いちゃったので。